(雨に微笑を/ニール・セダカ)
Strolling along country roads with my baby
It starts to rain, it begins to pour
Without an umbrella we're soaked to the skin
I feel a shiver run up my spine
僕の彼女と田舎道をぶらぶら歩いてたら
雨が降り出して、しかも土砂降りで
傘なんて無いから、僕らはびしょ濡れになっちゃって
背中に寒気が走ったほど
I feel the warmth of her hand in mine
でも、つないだ彼女の手のぬくもりが僕に伝わるんだ
Oo, I hear laughter in the rain
Walking hand in hand with the one I love
Oo, how I love the rainy days
And the happy way I feel inside
雨の中で笑い声が僕の耳に
愛する人と手に手をとって歩きながら
僕は雨の日が好きなんだ、こんなにも
胸の内に、幸せってヤツを噛み締めて
After a while we run under a tree
I turn to her and she kisses me
There with the beat of the rain on the leaves
Softly she breathes and I close my eyes
しばらくすると、僕らは木陰に駆け込んで
彼女の方を見れば、僕にキスをしてくれて
僕の耳には葉を叩く雨の音
そして穏やかな彼女の息遣い、僕はそっと目を閉じる
Sharing our love under stormy skies
大荒れの空の下で、僕たちは愛を2人で分かち合う
Oo, I hear laughter in the rain
Walking hand in hand with the one I love
Oo, how I love the rainy days
And the happy way I feel inside
雨の中で笑い声が僕の耳に
愛する人と手に手をとって歩きながら
僕は雨の日が好きなんだ、こんなにも
胸の内に、幸せってヤツを噛み締めて
I feel the warmth of her hand in mine
つないだ彼女の手のぬくもりが僕に伝わるんだ
Oo, I hear laughter in the rain
Walking hand in hand with the one I love
Oo, how I love the rainy days
And the happy way I feel inside
雨の中で笑い声が僕の耳に
愛する人と手に手をとって歩きながら
僕は雨の日が好きなんだ、こんなにも
胸の内に、幸せってヤツを噛み締めて
Oo, I hear laughter in the rain
Walking hand in hand with the one I love
Oo, how I love the rainy days
And the happy way I feel inside
雨の中で笑い声が僕の耳に
愛する人と手に手をとって歩きながら
僕は雨の日が好きなんだ、こんなにも
胸の内に、幸せってヤツを噛み締めて
<対訳>多々野親父
●6月に入り、憂鬱な梅雨の時期がひたひたと近づいてきています。洗濯物は乾かないし、何しろ外へ出る気も起きない、という雨なのですが、まぁだからってまんざら捨てたもんじゃないよ?という曲を今回は取り上げてみました。
ニール・セダカと言えば、1962年8月11日から2週間に渡って全米1位を走った「悲しき慕情」を真っ先に思い出す方がほとんどではないかと思います。確かに日本での彼はオールディーズにカテゴライズされ、ベスト盤が編集されてもこの時代の作品ばかりが顔を揃えるという流れになっているので仕方がない部分はあるものの、実は本当の意味での彼のゴールデンイヤーは1975年だったんですね。
ニールは1939年3月13日にニューヨークのブルックリンで生まれています。9歳の時にピアノを始め、12歳になるとジュリアーノ音楽院の準備過程へ入学を果たすという、才能だけでなく非常にしっかりとした音楽環境の中でティーンエイジを過ごし、高校2年の時にはアルトゥール・ルベンシュタインが審査員を務めたピアノコンクールで優勝を果たすという結果を残しています。
その一方、やはり高校時代には後にキャロル・キングとなるキャロル・クラインや詩人の卵だったハワード・グリーンフィールドと接しながら当時隆盛を極めていたロックンロールへも傾倒し、自作の曲を高校で歌って喝采を浴びたりクラスメイトとトーケンズというコーラスグループを結成して「アイ・ラブ・マイ・ベイビー」というローカルヒットを放つなど、クラシックとロックやポップスの間でどちらへ行けばいいのかを模索する青春時代を送ったんですね。
結局ニールは、ジュリアーノ音楽院で勉強をしながらハワードと作曲家コンビを結成し、1958年に「間抜けなキュ-ピッド」という曲を作り上げます。これをドン・カーシュナーとアル・ネヴィンズが立ち上げた音楽出版社アルドン・ミュージックへ持ち込むと、カーシュナー達はこれを大いに気に入って2人に独占契約を持ちかけただけでなく、コニー・フランシスと2人を引き合わせてこの曲のレコーディングへと漕ぎ着けてしまいます。これがビルボードで最高位17位をマークするヒットとなって、ニールはクラシックからレコード業界へと足を向けることになるわけです。
ニールは他者へ曲を提供することだけではなく自らの名前でもレコードを出したいと願い、これにRCAが応える形で「恋の日記」という曲がリアル・アンソニーとジ・インペリアルズの「ノー・ヴァカンシー」とのカップリングながらシングルとしてリリースされ、これでTop40アーティストの仲間入りを果たします。そしてここから、皆さんよくご存知の「カレンダー・ガール」や「おお!キャロル!(これはもちろん、キャロル・キングへ捧げた歌ですね。言わずもがなですが)」など11曲のチャートインシングルを出し、その決定打として「悲しき慕情」が飛び出したわけです。
しかし、その大成功が長く続くことはありませんでした。1964年になるとビートルズがチャートを席捲し、リスナーも音楽業界もその嗜好や志向をあっという間に変化させた結果、ニールたちには過去の人というレッテルを貼られてしまったからなんですね。ニールはその中でカーシュナーのスクリーン・ジャムという会社とライター契約を結び、グリーンフィールドとのコンビで「ワーキング・オン・ア・グルーピー・シング」などの曲を作り、これらをフィフス・ディメンションやパディー・ドルー達が取り上げて何とか面目は保ってはいたものの、歌手ニール・セダカとして脚光を浴びる機会が訪れることはありませんでした。1971年になってカーシュナーのレーベルからアルバム「エマージェンス」をリリースしますが、これはイギリスのみの発売だった上に売れず、ジリ貧状態となったニールは高校時代から同じ釜の飯を食べてきたグリーンフィールドとの活動を終える選択をするんですね。
一人になったニールに、カーシュナーは新たなパートナーとして作詞家のフィル・コディを紹介します。二人で作曲を始めると、代理人を担当していたディック・フォックスがイギリスへ行って空気を変えてみたら?とアドヴァイスし、これを聞いたニールは家族を連れて彼の地でいくつかの仕事をこなすことを決めるんですね(もちろんこの中には、後に親子でデュエットすることになる娘のダラ・セダカもいました)。
イギリスでニールを待っていたのはロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートでした。ここで彼は往年のヒット曲と共に新曲として暖めていた「ソリフィア」を披露し、オーディエンスから好意的な声を受けることに成功します。そこでマネージャーのハーヴェイ・リストバーグが、出入りしていたストロベリー・スタジオで知り合ったホットレッグスというグループと共に何曲かをレコーディングしてみたらどうかと進言します。それを受けてニールは彼らと共にアルバム「ソリフィア」を製作し、ここからカットされた「ビューティフル・ユー」がイギリスで最高位43位をマーク、続いて「ザッツ・ホエン・ザ・ミュージック・テイクス・ミー」も18位となって、ニール復活の準備が始まるんですね。
彼をサポートしたホットレッグスは、・・・つまりエリック・スチュワート、グラハム・グールドマン、ケヴィン・ゴドレイ、ロル・クレームの4人は、その仕事を終えた後にグループ名を10ccと変えていましたが、このカップリングに手応えを感じていたニール側の要請でもう一度タッグを組むことを決めます。その結果できあがったアルバム「トゥラ・ラ・ディズ・アー・オーバー」は、ここからカットされた「スタンディング・イン・ジ・インサイド」と「アワ・ラスト・ソング・トゥゲザー(これはニールがグリーンフィールドとの仕事を終える際、その総決算として作った2曲のうちの一つでした)」が共にイギリスのチャートでTop30に入り一応の成功を見ますが、アメリカではリリースされませんでした。おそらくこれは、大きな失敗を恐れたレーベル側がひとまず先の見えているイギリスだけをターゲットにしてお茶を濁したということだったと思われますが、聞かされていなかったニールはこれに激怒し、次の作品は10ccと別れてロサンゼルスで製作をすることを決めるんですね。しかもこのアルバムの中には、1975年にキャプテン&テニールが歌って全米1位を獲得する「愛ある限り」も収録されていたのですから、発売を担当したMGMの選択は責められて然るべきではないかと私も思います、はい。
ニールは1974年、その思いの通りアルバム「雨に微笑を」をロサンゼルスで製作しますが、やはりアメリカでのリリースはなく、イギリスでシングルカットされたタイトル曲が最高位15位をマークするというこれまでと似たような結果に終わります。しかしニールは、これを評価できる成果だと喜んで奥さんのレーバと2人でロンドンのアパートを舞台に祝賀パーティを開くんですね。ここにエルトン・ジョンと彼のマネージャーだったジョン・レイドが姿を見せたことから、事態は急変することになります。
これ幸いとニールはエルトン達にこれまでの経緯を話し、どうしてもアメリカでリリースしたい、できればエルトンのレーベルであるロケットの力を借りたいと説得を始めると、エルトンはこれに同意し、後日コロラドにあったエルトンの自宅で話し合いの場を持つことが決まります。そして10ccと組んでリリースしたアルバム2枚を編集した「セダカズ・バック」というアルバムを作り、これをアメリカで発売することになるんですね。
ニールはこのプロジェクトが失敗しないようロケットのレコードを配給していたMCAレコードに自ら赴き、ここで重役に「宜しく頼む」と頭を下げ、彼なりに万全を期しただけでなく、イギリスで売れた「雨に微笑を」を復活を告げるシングルとしてリリースすることも決め、これを実行に移しています。
こうしてようやくアメリカのリスナーの耳に届くことになった「雨に微笑を」は、1974年11月16日にTop40入りし、39位→32位→24位→20位→16位→12位→8位→5位→4位→3位→2位→1位→8位→16位→33位という見事なチャートアクションを見せる大ヒットになりました。1975年2月1日には「悲しき慕情」以来13年ぶりの全米1位返り咲きを果たしています。
この曲はメロディの素晴らしさもさることながら、心と心が通じ合う瞬間をさりげない表現で散りばめた、どこか日本的な感覚が漂う歌詞にも魅力が溢れているように思います。突然の雨に傘もないまま雨宿り、身体は凍えるほどなのに、彼女の手の暖かさがあれば笑い声も漏れてくる・・・、若い歌手ではなく酸いも甘いも噛み分けた当時35歳のニールが歌ったからこそ醸し出された味もまた、格別なものだと言えるでしょう。
ニールはこの年、エルトン・ジョンがバックコーラスで参加した「バッド・ブラッド」でもう一度全米1位を獲得するだけでなく、作曲者として「愛ある限り」でも同じ栄誉を得ることになります。この2曲についてはまた別の機会に、ということで。