(スパイス・オブ・ライフ/マンハッタン・トランスファー)
Down on the corner there's a reason to smile
When those evenin' shadows fall
Some kinda feelin' that it's hard to deny
Once the neon lights start to call
People out there searchin' for action
Daytime distraction slippin' right on by
通りの角に沿って歩けば、そこには人を笑顔にする理由がある
夕暮れが夜へとその影を深めればね
抗えきれない衝動が湧き起こる
ネオンライトが客を招き始めるとね
外に出ている人達は、皆動き出せる場所を探してる
昼間のピンボケな空気はすぐに退散していくの
Tonight, let's taste the spice of life
Keep it sweet until the mornin' light
Watch fantasy unfold
And let the lovin' flow
今夜、人生のスパイスを味わいましょうよ
朝日が昇るまで、気分を素敵なままにして
ファンタジーが繰り広げられるさまをこの目にして
そして、愛を満たしましょうよ
Caught in the madness of a summer romance
At a moonlight rendezvous
Lost in the spirit of a sensual dance
That can cast a spell over you
All you need's a night to remember
Flyin' together on the highest high
夏の日のロマンスに心は興奮にとらわれる
月明かりの下で待ち合わせてるとね
意味深なダンスの雰囲気が
気持ちを夢中にする魔法をかける
欲しいのは忘れられない夜ただそれだけ
一緒に空へと舞い上がりましょうよ、一番高い所のその先まで
Tonight, let's taste the spice of life
A little music and some candlelight
Put passion in control
And let the lovin' flow
今夜、人生のスパイスを味わいましょうよ
ほんのちょっとの音楽とキャンドルライトで
情熱を理性で押さえ込むの
そして、愛を満たしましょうよ
Could be the start of a million dreams we share
So lay back in the feelin' let the evenin' take you there
これが、2人で分かち合う100万もの夢の始まりになるのかも
だから、何も考えず気持ちに身を任せ、夜に連れていかせましょうよ
All we need is a night to remember
Flyin' together on the highest high
欲しいのは忘れられない夜ただそれだけ
一緒に空へと舞い上がりましょうよ、一番高い所のその先まで
Tonight, let's taste the spice of life
A little music and some candlelight
Put passion in control
And let the lovin' flow
All night we'll taste the spice of life
Keep it sweet until the mornin' light
Watch fantasy unfold
That's the only way to go
今夜、人生のスパイスを味わいましょうよ
ほんのちょっとの音楽とキャンドルライトで
情熱を理性で押さえ込むの
そして、愛を満たしましょうよ
一晩中、2人は人生のスパイスを味わうの
朝日が昇るまで、気分を素敵なままにして
ファンタジーが繰り広げられるさまをこの目にして
もう他に残された方法なんてないのだから
<対訳>多々野親父
●この曲はディスコで踊りましたねぇ!適度な早さのリズムとものすごくオシャレなアレンジにマントラ4人の華麗なコーラスが加わるこの「スパイス・オブ・ライフ」が流れると、ダンスフロアの雰囲気が一気に華やいだものです。大学の学祭で我々のサークルはディスコをやったんですが、そこでもこの曲はヘビー・ローテーションをかけましたっけ。
1925年に出版されたジョン・ドス・パッソスの小説のタイトルから名前をとったマンハッタン・トランスファーは、1972年にアラン・ポール、ジャニス・シーゲル、ロウレル・メッセ、ティム・ハウザーによってカンザスシティで結成されています。その後、レノ・スウィーニーに見出されてニュー・ヨークに移り、1975年に自分達の名前を冠したアルバムでデビューを飾ります。
非常に高度なボーカルテクニックを有した4人の存在を最初に評価したのはヨーロッパの市場でした。1976年には"Tuxedo Junction"がイギリスのチャートで最高位24位、翌1977年には"Chanson D'Amour"が今度は1位になっただけでなく、アルバムも2枚目の”Coming Out”が12位、3枚目の”Pastiche ”に至っては10位、更には1978年に出した”The Manhattan Transfer Live”は4位にまで上昇する、と人気を決定付けていくことになります。しかし、本国のアメリカではそのパフォーマンスこそ評価されてはいたものの、セールスでは大苦戦を強いられます。一応、Top40ヒットを出すというミッションは1975年にリリースした「オペレーター」で果たしていますが、それ以降は1枚のシングルもナショナルチャートに顔を出せないという状況に陥っていました。その原因はコマーシャリズムに乗りにくかったことと、この当時マーケットを支配していた空気の中にボーカルグループが立てる場所がなかった点が挙げられるでしょう。時代は踊れ!踊れ!でしたからねぇ。
しかし、ロウレルが交通事故でひどい怪我を負ったことからシェリル・ベンティンが彼女に代わって加入した1979年に転機が訪れます。それはこの年にリリースしたアルバム”Extensions”に収められていた「トワイライトゾーン」が1980年6月に最高位30位をマークするヒットになったことでした。1960年代に放送されていたテレビシリーズのタイトル曲をディスコ風にアレンジしたこの曲により、マントラも企画によって人気が一般化する可能性があることが示されたんですね。
迎えた1981年、アルバム”Mecca for Moderns”のリリースと共にここから「ボーイ・フロム・ニューヨーク・シティ」がシングルカットされると、8月に3週間連続で7位にランクされる大ヒットになります。この曲は古きよき時代のポップスを思い出させるレトロな雰囲気が詰め込まれたものでしたが、これが当時流行していたカントリーフレーバーによくマッチした点が人気爆発の原動力になったものと思われます(カントリーチャートでは堂々最高位4位をマークしています)。
ベスト盤を挟んで1983年にリリースされたアルバム”Bodies and Souls”は、ようやく全国区の人気を得たマントラが、それを更に充実させようという意図をもって製作されたものでした。これまでのボーカルを前面に押し出したスタイルから、楽曲全体のよさでアピールしようという方向性を選択した結果、様々なゲストを招いて録音するという手法がとられています。
ここから最初にシングルカットされたのが今回対訳した「スパイス・オブ・ライフ」でした。1983年11月5日にTop40入りしたものの40位を2週続けてダウンとチャートアクション的には見るべきものはなかったとはいえ、作曲はヒートウェイヴのロッド・テンパートン(マイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」、「スリラー」、ブラザース・ジョンソンの「ストンプ」など多くの名曲を書いている人です)が担当し、間奏のハーモニカをスティーヴィー・ワンダーが吹くという非常に豪華なラインナップで録音され、話題を集めたものでした。この当時、ブランデーのCM(確かVSOPだったんじゃないかな)に登場したマントラの4人が、アカペラで「スパイス・オブ・ライフ」を歌っていたことも懐かしく思い出されます。
マントラはこの後、ジャズへのアプローチを開始した為、Top40ヒットはこの曲が最後になっていますが、メンバーを変更することなく現在も一線で活躍している点はさすがの一言!ですよね。
(ジェパーディ/グレッグ・キーン・バンド)
Where were you
When we needed you
Well you could not be found
What can I do
Oh, I believed in you
You're running me around
どこにいたんだよ
オレらが必要としてた時に
見つけることができなかったんだって
オレに何ができるんだ?
ああ、お前を信じてはいたさ
お前はオレを金策に走り回らせてくれてるが
Well you can take it as a warning
Or take it anyway you like
It's the lightning, not the thunder
You never know where it's gonna strike
お前は、警告燈が光ってるとわかって金を持っていけるし
好きなようにただただ持ってくこともできるけど
今の状況は稲光みたいなもんなんだぜ?ゴロゴロ鳴るだけの雷じゃないんだ
お前は、それがどこに落ちるかわかっちゃいないんだ
Our love's in jeopardy, baby
Ooooh-ooh-oooooh
Our love's in jeopardy, baby
Ooooh-ooh-oooooh
俺達の愛は危機的状況なんだよ
あー
俺達の生活は危機に瀕してる
うー
Don't be cute
Don't be funny now
It's later than you think
Oh, what's the use
Save your money now
It's hanging on the brink
キュートになんかならなくてもいいんだ
もっとマジメにやれよ、なぁ
お前が考えてるより、事態は深刻なんだって
ああ、何に使うんだ?
金を節約してくれよ
もうギリギリのところで耐えてるんだって
Don't let go while I'm hanging on
'Cause I been hanging on so long
It's so hard to be all alone
I know you're not that strong
Yeah, yeah
オレが耐えている間、金を使うなって
だって、もうオレは長い間こうして耐えてるんだからさ
丸裸になっちまうのは本当に厳しいことなんだ
お前がそれに我慢できるほど強くないことはわかってるんだって
Our love's in jeopardy, baby
Ooooh-ooh-oooooh
Our love's in jeopardy, baby
Ooooh-ooh-oooooh
俺達の愛は危機的状況なんだよ
あー
俺達の生活は危機に瀕してる
うー
Don't let go while I'm hanging on
'Cause I've been hanging on so long
It's so hard to be all alone
I know you're not that strong
Yeah, yeah
オレが耐えている間、金を使うなって
だって、もうオレは長い間こうして耐えてるんだからさ
丸裸になっちまうのは本当に厳しいことなんだ
お前がそれに我慢できるほど強くないことはわかってるんだって
Our love's in jeopardy, baby
Ooooh-ooh-oooooh
Our love's in jeopardy, baby
Ooooh-ooh-oooooh
Our love's in jeopardy (jeopardy), baby
Ooooh-ooh-oooooh
Our love's in jeopardy (jeopardy), baby
Ooooh-ooh-oooooh
Love's in jeopardy, baby
俺達の愛は危機的状況なんだよ
あー
俺達の生活は危機に瀕してる
うー
俺達の愛は危機的状況なんだよ
あー
俺達の生活は危機に瀕してる
うー
俺達の愛は危機的状況なんだよ
あー
俺達の生活は危機に瀕してる
うー
<対訳>多々野親父
●グレッグ・キーン・バンドは1949年7月10日生まれのグレッグ・キーンとスティーブ・ライトの2人を中心に1970年代に結成されています。彼らは1976年に「グレッグ・キーン」でデビューを飾りますが、何と言うか音的にはまっとうでありながら、どこかコミカルな味を醸し出しながら活動を続けていきます。そのテイストは2枚目のアルバムが「グレッグ・キーン・アゲイン」、3枚目が「ネクスト・オブ・キーン」という、言われてみりゃその通りなんだけど・・・、他につけようなかったの?というようなタイトルからも滲み出てくるものでした。
1979年に「ウィズ・ザ・ネイキッド・アイズ」、1980年に「グラス・ハウス・ロック」と年1枚のペースでアルバムをリリースするも、なかなかチャート上位に食い込めなかった彼らが注目を集めたのは、1981年に出した「ロッキーンロール」とここからカットされた「ザ・ブレイクアップ・ソング」のヒットからでした。タイトルは「別れ歌」という身も蓋もないものでしたが、この曲は1981年7月11日に39位をマークして彼らにとって初めてのTop40ヒットになっただけでなく、9月には2週連続で15位をマーク、更にメイン・ストリーム・ロック・チャートでは堂々の5位を記録してその存在を広く知らしめることになります。
そして迎えた1983年、通算8枚目となるアルバム「キーンスピレイシー」からファーストシングルとしてカットされた「ジェパーディ」で、彼らは更に躍進を果たすんですね。
この曲は1983年3月5日にTop40入りを果たし、34位→27位→16位→14位→12位→9位→4位→4位→3位→2位→3位→8位→15位→24位と最高位2位ながらやけに早い「飽きられ方」で圏外に消えていきました。クラビネットをベースにした少々ルーズなビートに乗せて歌われる奥さんの浪費を呪う歌詞が、当時は非常に面白く感じたものでした。しかも、この曲は「ザ・ブレイクアップ・ソング」で歌われた2人のなれの果てという作りになっていて、ビデオもこの2曲が続き物のように編集されています。これにも笑いましたねぇ。
グレッグ・キーン・バンドは、この後もアルバムタイトルのどこかに「Khin」の文字を入れながら1991年まで勢力的にレコード製作を行っていますが、現段階では1996年の「ホラー・ショウ」が最後で、またシングルの方は1985年の「ラッキー(最高位30位)」以降Top40ヒットがないままになっています。
しかし、バンドとしての活動は続いており、グレッグは現在サンホセのラジオ局で朝の番組のDJを担当し、バンドもそのオープニングを飾るミュージシャンの一つとして登場しています。更に、グレッグの息子レイ・キーンもバンドに加わって、今や親子二代でがんばっているというわけです。
なお、グレッグはメディア向けの活動とは別に、ロックミュージシャンを題材にした小説を書いて出版しているという別の顔ももっています。あの含み笑いをしたくなるようななんとも言えない歌詞は、元々あった彼の文才がなせる技だったということなんでしょうね。
(サンシャイン/スティーヴィー・ワンダー)
You are the sunshine of my life
That's why I'll always be around,
You are the apple of my eye,
Forever you'll stay in my heart
君こそ、我が人生最良の存在さ
だから、僕はずっと君の周りにい続けるんだ
君は、僕にとって目に入れても痛くない存在なんだ
永遠に僕の心にあり続ける人さ
I feel like this is the beginning,
Though I've loved you for a million years,
And if I thought our love was ending,
I'd find myself drowning in my own tears
僕は、これが始まりのように感じてる
例え、これまで100万年も君を愛し続けていたとしても
そして、もし僕が2人の愛に終わりが訪れたと思ったなら
自分が流した涙で溺れる自分の姿に、今頃気づいていたんだろうな
You are the sunshine of my life,
That's why I'll always stay around,
You are the apple of my eye,
Forever you'll stay in my heart
君こそ、我が人生最良の存在さ
だから、僕はずっと君の周りにい続けるんだ
君は、僕にとって目に入れても痛くない存在なんだ
永遠に僕の心にあり続ける人さ
You must have known that I was lonely,
Because you came to my rescue,
And I know that this must be heaven,
How could so much love be inside of you?
僕が一人ぼっちでいたと、君は察してくれたに決まってる
だって、君は僕を救いに来てくれたから
それが天国だったに違いないと、僕はわかってる
君は、その体の中にどれほどの愛を携えているの?
You are the sunshine of my life, yeah,
That's why I'll always stay around,
You are the apple of my eye,
Forever you'll stay in my heart
君こそ、我が人生最良の存在さ
だから、僕はずっと君の周りにい続けるんだ
君は、僕にとって目に入れても痛くない存在なんだ
永遠に僕の心にあり続ける人さ
Love has joined us,
Love has joined us,
Let's think sweet love
愛が2人をつないでる
愛が2人をつないでる
さぁ、素敵な愛について考えようよ
<対訳>多々野親父
●1962年に"The Jazz Soul of Little Stevie Wonder"でデビューを飾って以降、スタジオ録音やライブ盤を毎年リリースしながら1960年代を過ごしている(後に遅作でモータウンの重鎮達を悩ませるスティーヴィーの姿など、当時は想像もできなかったはずである)。その中で彼はミュージシャンとしての成功を勝ち取っただけでなく実業家としての活動にも着手しそれを推し進めていたが、まだ名前はリトル・スティーヴィー・ワンダーだった。そして着実にティーンエイジャーから大人へと進化を遂げようとしていた彼が急いだものは、”リトル”からの脱却ということになる。従って、1950年5月13日生まれのスティービーにとって、20代に突入する1970年は一つの転機になりうるタイミングだった。そしてこの年に彼が果たしたものがシリータ・ライトとの結婚だったわけである。
シリータは歌手を志望していたが、スティーヴィーが彼女とあった時のポジションはモータウンの秘書というものだった。その後、プロデューサーのクラレンス・ポールがシリータの為の曲を書くよう勧め、これを受けたスティーヴィーはそれを書き上げるが、結局レコードとなることはなかった。だが、そこでの協力作業によって2人の間に愛が生まれ、結婚へと進んでいくことになったのである。2人が夫婦として過ごしたのはたった18ヶ月のことだったが、こうしたスティーヴィーの動きを見た世間の目は、”リトル”という冠がなくても問題がないという結論を下していくのである。そしてこの結婚によってスティーヴィーは精神世界を深めるきっかけを得ることになる。スティーヴィーはそれまで力を求め、それがより強い状態であることを望んでいたが、超越瞑想の概念をシリータから教えられた彼は、求めるべきは力ではないことを悟るようになるのである。
こうした精神の成熟はスティーヴィーが生み出す音楽にも大きな影響を与えている。R&Bを基調とした彼のスタイルは、人の心の動きや手にできないもの、普遍的に存在するものをモチーフにした歌詞と、ソウルやジャズ、ロックといったいくつものジャンルをミックスした彼独特の音世界によって構築され、それはまさに新生スティーヴィー・ワンダーと呼ぶにふさわしいものだった。1972年10月にリリースされたアルバム「トーキング・ブック」で、そんなスティーヴィーの姿を世が知ったのである
ここから最初にカットされたシングルは「迷信」で、1963年の「フィンガーティップス」以来10年ぶりとなる全米1位を1973年1月27日に獲得している。クラビネットの攻撃的なリフが続くサウンドに乗せて、迷信を信じ、それに行動が左右される人々がいかにつまらない存在かを歌ったこの曲に続いてシングルカットされたのが「サンシャイン」だった。
「君こそ、我が人生最良のもの」という至高とも言える愛のメッセージをタイトルにしたこの曲は、1973年3月17日にHot100へ飛び込んでくると、その9週後の5月19日に全米1位へと上り詰めている。ほとんどの楽器をスティーヴィー本人が演奏している一方で、彼の作品としては珍しく自分の声よりも前に他の歌手の声が聞えるという手法がとられている。男性はジム・ギルストラップで、女性はグロリア・アーレィがこのセクションを担当しているが、こうした姿勢もスティーヴィーの心境に何らかの変化がったことを窺わせるものとなっている。
「サンシャイン」はリリース後に多くのカバーバージョンを生み、その範囲はトム・ジョーンズやアンディ・ウィリアムス、ジョニー・マティスといったポップス歌手だけではなく、ライザ・ミネリや大御所フランク・シナトラにまで及ぶもので、彼らがこぞって取り上げたことがこの曲のエヴァーグリーン化を急速に進めたと言えるように思われる。当然のようにグラミー賞のベスト・ポップ・ボーカル賞に選ばれているが、授賞の際に壇上へ上がったスティーヴィーは「今夜を”Sunshine Of My Life”にしてくれたことに感謝します」とコメントして拍手を浴びている。しかし、全米レコード協会がベスト・ソウル・ソングにこの曲を選んだ時には「これは特定の人々の為に歌われる歌ではありません。僕たちは皆愛を感じることができます。だから、音楽がカテゴリー分けされてしまう時に、僕はそれを喜んで受け入れることができないのです」と語ってこれを辞退している。既にこの段界で、スティーヴィーの意識は「融合」に向って突き進んでいたというわけである。
(アイ・キープ・フォゲッティン/マイケル・マクドナルド)
I keep forgettin' we're not in love anymore
I keep forgettin' things will never be the same again
I keep forgettin' how you made that so clear
I keep forgettin'
忘れ続けるんだ、もうここから先の僕らは恋人じゃないことを
忘れ続けるんだ、もう2人が以前のようには二度とならないことを
忘れ続けるんだ、君がはっきりと決断したさまを
忘れ続けるんだ
Everytime you're near
Everytime I see you smile
Hear your "hello"
Saying you can only stay a while
君が側にいる時はいつだって
君の笑顔を見る時はいつだって
君の”Hello”は耳には入るさ
ちょっとした世間話なら構わないと言う声もね
Hey, I know that it's hard for you
To say the things that we both know are true
But tell me how come
ねぇ、君には辛いことだってわかってる
僕らが知ってるものは皆真実なんだと口にするのはね
でも教えて欲しいんだ、どうやって・・・
I keep forgettin' we're not in love anymore
I keep forgettin' things will never be the same again
I keep forgettin' how you made that so clear
I keep forgettin'
忘れ続けるんだ、もうここから先の僕らは恋人じゃないことを
忘れ続けるんだ、もう2人が以前のようには二度とならないことを
忘れ続けるんだ、君がはっきりと決断したさまを
忘れ続けるんだ
Everytime I hear
How you never want to live a lie
How it's gone too far
And you don't have to tell me why
いつだって聞いてるよ
君が偽りを纏って生きたくはないと言っていることをね
もう手後れなんだと言っていることも
そして、君はその理由を僕に言う必要はない
Why you're gone and the game is through
If this is what's real, if this is what's true
Tell me how come
何故去っていったのかを、2人が終わっていることを
この現実が本当だと言うなら、この現実が真実だと言うなら
教えてくれよ、どうやって・・・
I keep forgettin' we're not in love anymore
I keep forgettin' things will never be the same again
I keep forgettin' how you made that so clear
I keep forgettin'
忘れ続けるんだ、もうここから先の僕らは恋人じゃないことを
忘れ続けるんだ、もう2人が以前のようには二度とならないことを
忘れ続けるんだ、君がはっきりと決断したさまを
忘れ続けるんだ
Don't say that, don't say that, don't say that
I know you're not mine anymore-anyway-anytime
But tell me how come
言わないでくれよ、そんなこと言わないで、言わないでくれよ
僕はわかってるんだ、君が僕のものではないことを、これ以上、何をしても、どんな時になっても
でも、これだけは教えて欲しいんだ、どうやって・・・
I keep forgettin' we're not in love anymore
I keep forgettin' things will never be the same again
I keep forgettin' how you made that so clear
I keep forgettin'
忘れ続けるんだ、もうここから先の僕らは恋人じゃないことを
忘れ続けるんだ、もう2人が以前のようには二度とならないことを
忘れ続けるんだ、君がはっきりと決断したさまを
忘れ続けるんだ
<対訳>多々野親父
●ドゥービー・ブラザースを脱退後、ソロ活動開始の狼煙としてマイケル・マクドナルドがマーケットに放った曲がこの「アイ・キープ・フォゲッティング」でした。サウンド的には1979年の大ヒットアルバム「ミニット・バイ・ミニット」、そして最初の解散に際してラストアルバムとなった「ワン・ステップ・クローサー」に似たアダルトな雰囲気を漂わせたこの曲は、1982年8月28日にTop40入りし、33位→28位→25位→21位→15位→9位→7位→6位→4位→4位→4位→9位→25位と推移して消えていきました。
しかし「ワン・ステップ・クローサー」から最初のシングルとしてカットされた「リアル・ラヴ(最高位5位)」よりもヒットの規模が大きかったことから、リスナーにドゥービー・ブラザースの人気がマイケルの存在に負う部分が大きかったという印象を与えます。1980年9月にはマイケルが自分の奥さんであるエイミー・ホランドをプロデュースした「ハウ・ドゥ・アイ・サーヴァイヴ」も、それ以外の話題が何もない無名歌手だったにも関わらず最高位22位にまで上昇するヒットになっており、「マイケル的なもの」に対する需要がこの当時のマーケットには強くあったことを浮き彫りにしていました。
しかし、「アイ・キープ・フォゲッティング」には何とも情けない事件がこの後に起きます。当初、作者はマイケル・マクドナルド本人とエドワード・サンフォード(サンフォード&タンゼンド・バンドとして「スモーク・フロム・ディスタント・ファイア」を1977年にリリースし、最高位9位を獲得したことがある)とされていたのですが、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが書き、チャック・ジャックソンが1962年にレコーディングした同名の曲と似ているという指摘を受けた為、リーバーとストーラーの名をクレジットに加え、カバーバージョンであることを認めています。既にマイケルがこの曲をレコーディングした段階でチェックメイツ(1969年)、プロコル・ハルム(1975年)、ロジャー・チャップマン(1979年)がカバーを出していただけに、マイケルが何故このようなドタバタ劇を演じたのかについては、ちょっとわかりかねるところではあります。
この曲はTOTOのスティーブ・ルカサーとジェフ・ポーカロがギターとドラムで、またマイケルの実の妹であるモーリーンがコーラスでそれぞれ参加しています。また、1986年にマイケルとのデュエット「オン・マイ・オウン」で全米1位を獲得することになるパティ・ラベルが、2005年にマイケルバージョンの「アイ・キープ・フォゲッティング」をカバーしています。
それにしても、この曲がヒットしていた当時、これからはマイケルがAORを背負って立つという雰囲気が強く漂っていたものですが、結局単体では1985年の「ノー・ルッキング・バック(最高位34位)」と、映画「シカゴ・コネクション/夢見て走れ(主演はビリー・クリスタルとグレゴリー・ハインズ、刑事物で個人的にすごく好きな作品です)」のサントラだった「スウィート・フリーダム(最高位7位)」しかTop40ヒットがないまま今に至っています。まぁ、プロデュースが本業という感じにはなっていたわけですが、少々淋しいかな、と。
(フー・ファウンド・フー/エリッサ・フィオリオ)
How come you can't explain it,
The way you're acting recently?
It seems that everything is changing,
Cause I can tell the way you're treating me.
I believe that you still love me,
But you find it hard to show.
don't throw away the chance,
Cause it might be your last,
And I won't let you forget
Who, who found who?
説明できないなんて、どういうつもり?
最近の貴方がやってることを
2人の間の全てが変わっていくように思えるわ
貴方が私をどんな風に扱ってるかを1から教えてあげられるし
貴方がまだ私を愛してるってこと、私は信じてる
でも貴方は、それを示すのが難しいって気づいてる
チャンスを棒に振るようなことはしないで
だって、これが最後になるだろうから
忘れさせるなんてことはないでしょうね
誰が、誰が気づいたのかってことを
Who ,
Who found who?
Look at all the time you've wasted
And how your life is just a mess.
I took you home to meet my family;
It wasn't meant to be a test.
I wanted you to see devotion,
And feel that you were being loved.
don't throw away this chance,
Cause it might be your last,
And I won't let you forget
Who
Who found who?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
貴方が無駄にしてきた時間全てを見つめなさいよ
貴方の生き方なんてただのゴミのようだってことを
家族に会わせる為に貴方を家へ連れていったわ
それって、面通しってだけじゃなかったのよ?
貴方にどれほど夢中なのかをわかって欲しかった
そして、愛されているんだということを感じて欲しかったの
チャンスを棒に振るようなことはしないで
だって、これが最後になるだろうから
忘れさせるなんてことはないでしょうね
誰が、浮気に気づいたのは誰だったかを
Who
Who found who?
Who
Who found who?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
Who
Who found who?
Hold me, show me, oh baby,
don't fight it.
Its easy; you know
There's nothing I would rather do
Than to give my love to only you.
Oh, Im holding out my arms to you
Baby, don't let me down
So show me that you love me,
Cause it doesn't matter now.
Who who
Who found who?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
抱きしめて、私に示してよ、ベイビー
私と戦うなんてやめてね
簡単なことなの、わかってるでしょ?
他に私がしたいことなんてないのよ
貴方ただ1人に愛を捧げること以外にはね
ベイビー、私をがっかりさせないでよ
そして、貴方も愛していることを示して
だって、今ではもう関係ない話だから
誰が、誰が
誰が浮気に気がついたかなんてことは
Who who
Who found who?
Who who
Who found who?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
Who who
Who found who,
Huh-uh-uh.
Who,
Who found who?
Who,
Who found who?
Who who
Who found who?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
Who who who,
Who found who?
Who, who, who,
Who found who?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
誰?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
Who, who, who,
Who found who, whoa?
So hold me in your arms
And tell me you are mine
don't throw away the chance
Cause it might be your last.
誰?誰?誰だっけ?
浮気に気づいたのは誰だっけ?
貴方の腕の中で抱きしめて
そして、貴方が私のものだと言って
チャンスを棒に振るようなことはしないで
だって、これが最後になるだろうから
<対訳>多々野親父
●一時期は恋人とも噂されたマドンナを発掘し、「クレイジー・フォー・ユー」へのリアレンジを指示して全米1位獲得に貢献したプロデューサー、ジェリービーンことジョン・ベニッツが、当時16歳だったエリッサ・フィオリロをフィーチャーしてヒットさせた曲がこの「フー・ファウンド・フー」でした。1987年8月15日にTop40入りを果たし、38位→33位→25位→20位→19位→16位→20位→37位というチャートアクションを見せています。
エリッサはフィラデルフィア出身で、クラシックのピアニストの娘として1969年2月28日に生まれています。カリフォルニアに移住した後、1983年にテレビ番組”スター・サーチ”で優勝したエリッサは、テレビ番組でのちょい役起用や、ミュージカルへの出演でキャリアを積んでいくものの、ショウビズ界の周辺でうろうろしている「その他大勢」の一人という感じで少女時代を過ごします。
しかし、どういう経緯があったのか彼女の存在をジェリービーンが知り、テストの意味で「フー・ファウンド・フー」を録音したところ、これがダンスチャートで上昇するという予想外の結果を招き、その様子を見たクリサリスが第二のマドンナとして売り出すことを決定します。
彼女の名前を冠したデビュー・アルバムの製作には、ジェリービーンはもちろん、彼の息がかかったレジー・ルーカスやガードナー・コールといったマドンナの音楽担当者を引き抜いて臨むというかなり乱暴な策がとられ、更にはホール&オーツのジョン・オーツとのデュエット「ユー・ドント・ノー」まで録音されましたが、残念ながらコケてしまったんですね。1990年には2枚目のアルバム”I am”をリリースしますが、プリンスファミリーの協力を得たドファンクの世界はどう考えても彼女のカラーには合わず、やはりこれも失敗に終わります。
以降、彼女はバックコーラスとしてサヴェージ・ガーデンなどのレコーディングに参加しつつ、マイケル・ディーズと結婚して3人の息子の母親となって今に至っています。
で、驚いたことに21世紀に入ってからのエリッサはジャズシンガー的な活動をしながら、なんとアニメ関係の仕事も並行して行っているようです。2001年に日本では「魔法少女猫 たると」のタイトルで放送された番組のアメリカ版でディレクターを務めただけでなく、2003年には「ストラトス・フォー」というOVA作品の英語吹き替え版で声優までこなしているとのことです。
で、やはりこの「フー・ファウンド・フー」はエリッサの魅力というよりも、曲自体の出来がものすごくよかったことがヒットの理由だったんだろうと思いますね。マドンナの「ホリディ」に似たテイストだった為、リスナーにもすんなり受け入れられた部分もあったはずですし。この時期は、ディスコが巨大化とクラブ化の双方向へ向って変化しようとしていたわけですが、クラブ側のサウンドテイストを提示していた点も大きかったように感じますね。
(ダンシング・シスター/ノーランズ(ただし、発売当時の名義はNolan Sisters)
I'm in the mood for dancin', romancin'
Ooh I'm given' it all tonight
I'm in the mood for chancin'
I feel like dancin'
Ooh so come on and hold me tight
私、踊りたい気分なの、ロマンスに浸りたい気分なの
だから今夜は、全てを投げ出してるの
私、チャンスに賭けたい気分なの、気分も踊ってるみたいで
だから、さぁ、私を強く抱きしめて
Dancin', I'm in the mood, babe
So let the music play
Ooh I'm dancin', I'm in the groove, babe
So get on up and let your body sway
踊って(踊って)そういう気分に浸って、ベイビー
さぁ、音楽を流しましょう
踊ってる(踊ってる)、私グルーヴしてる、ベイビー
だからリズムに乗って、貴方も身体を揺らして
I'm in the mood for dancin', romacnin'
You know I shan't ever stop tonight
I'm in the mood for chancin'
I feel like dancin'
Ooh from head to my toes
Take me again
And heaven who knows
Just where it will end
私、踊りたい気分なの、ロマンスに浸りたい気分なの
わかってるでしょ?今夜の私が躊躇なんてしないことを
チャンスが欲しい気分なの、
もう気分は踊ってるよう
頭の先からつま先まで
私をもう一度捕まえてみて
神様だけが知ってるの
この気分がどこで終わりを迎えるかは
So dance, yeah let's dance, come on and dance
Dance, yeah let's dance, come on and dance
だから踊ろう!そう、踊りましょうよ、さぁ、踊ろうよ
踊って、踊りましょうよ、さぁ、踊ろうよ
I'm in the mood for dancin', romancin'
Ooh I'm given' it all tonight
I'm in the mood for chancin'
I feel like dancin'
Ooh so come on and hold me tight
私、踊りたい気分なの、ロマンスに浸りたい気分なの
だから今夜は、全てを投げ出してるの
私、チャンスに賭けたい気分なの、気分も踊ってるみたいで
だから、さぁ、私を強く抱きしめて
Dancin', just feel the beat, babe
That's all you've gotta do
I can't stop dancin'
So move your feet, babe
when I get up close to you
踊ってる、ただリズムを身体に感じて、ベイビー
他にしなkyいけないことなんて何もないの
もう踊る自分を止められない
だから貴方も足を動かして、ベイビー
私が足を速めて貴方へ近づいたらね
I'm in the mood for dancin', romacnin'
You know I shan't ever stop tonight
I'm in the mood, I'm in the mood, I'm in the mood
私、踊りたい気分なの、ロマンスに浸りたい気分なの
わかってるでしょ?今夜の私が躊躇なんてしないことを
そういう気分なの、そういう気分に浸ってる、そういう気分なのよ
To dance, get up and dance, come on and dance
I'm in the mood to take a chance
Yeah let's dance, come on and dance
I'm in the mood to take a chance
Yeah let's dance, come on and dance
Get on your feet, now make your dance
Let us dance, come on and dance
踊りたい気分なの、スピードを上げて踊るの、さぁ、貴方も踊りましょうよ
私、チャンスをモノにしたい気分なの
ねぇ踊ろうよ!さぁ、踊りましょう?
私、チャンスをモノにしたい気分なの
ねぇ踊ろうよ!さぁ、踊りましょう?
足を動かして、ほら、貴方も踊ってみせて
踊りましょうよ、さぁ、踊ろうよ
<対訳>多々野親父
●ノーランズの「ダンシング・シスター」は、キャメロン・ディアスを起用したソフトバンクの携帯のCMで使用されて、また街でよく聴かれるようになりましたよね。アメリカのチャートには全く関係のなかった人達ですが、1980年代洋楽の文字を見て即座に彼女達を思い出す人は多いのではないかと思います。何せこの曲、オリコンのシングルチャートで初めて1位を獲得した洋楽の勲章を持っていますので。
で、あの当時何故にあれだけ売れたのかなんですが、やはりアイドル的な存在だったことがかなり影響したものと思われます。ノーランズは両親が共に歌手だったという環境に生まれた5人姉妹でした。生まれはアイルランドのダブリンで、1962年にイギリスのブラックプールへと移住します。そして1970年代に入ると”シンギング・ノーランズ”というグループ名でクラブ巡りを中心とした音楽活動を開始したわけですね。その後彼女達はテレビのバラエティ番組に出演するようになり、よく知られたポップスをカバーしたレコードをリリースするなど、何と無くキャンディーズにオーバーラップする流れの中でキャリアを積んでいきます。
1978年に20曲をカバーしたアルバムをリリースすると、これがイギリスチャートで3位まで上昇するヒットとなり、エンゲルバルト・フンバーディングのアメリカツアーに前座として同行すればこれも成功を収めるというサクセス・スト−リーが始まります。当時のメンバーはアン(1950年生まれ)、デニス(1952年生まれ)、モリーン(1954年生まれ)、バーニー(1960年生まれ)となっていましたが、この頃にデニスがソロ歌手に転向する為、1965年生まれのコリーンが彼女に代わってノーランズに参加しています。
1979年にエピックと契約を結んだノーランズ・シスターズは、自分達の名前を冠したアルバムをリリース、ここに収められていたのが「ダンシング・シスター」でした。この曲はイギリスのチャートで最高位3位をマークした、というわけです。
続いて1980年にアルバム「メイキング・ウェイヴス(邦題が確かあったと思ったな・・・)」から、「ドント・メイク・ウェイヴス」、「ガッタ・プル・マイセルフ・トゥゲザー」、「フーズ・ゴナ・ロック・ユー」、「アテンション・トゥ・ミ−」が全英Top20に入るヒットとなり、日本では後にWinkがカバーする「セクシー・ミュージック」が30万枚近い売り上げをマークするに至り、歌謡曲しか聴かない層も彼女達の存在を知るようになったのでした。
しかし転落も早いものでした。1981年にリリースした「ポートレイト」からは「ケミストリー」と「ドント・ラヴ・ミ・トゥー・ハード」がかろうじて全英Top20に顔を出しましたが、彼女達の名前が上位に記されたのはこれが最後になりました。
結局1984年の「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」を最後にメジャー所からのアルバムリリースはされていませんが、ノーランズとしての活動はメンバーの入れ替えを何度か経ながら続き、折りに触れてあの人は今的なテレビ番組に出演してもいるようです。なので、日本でもこの企画をやる時はノーランズの面々に声をかけてもいいのではないかと思います(たいてい出演するのってベイシティローラーズのレスリーで、ちょっと飽きてるし)。
しかし、この曲の歌詞、改めて読み返すとダンスのオンパレードで、歌っている側もたまらないものがあったんじゃないでしょうか・・・。
(ヴァロッテ/ジュリアン・レノン)
Sitting on the doorstep of the house I can't afford
I can feel you there
Thinking of a reason, well it's really not very hard
To love you even though you nearly lost my heart
How can I explain the meaning of her love
It fits so tight, closer than a glove
ドアステップに座りながら、僕は余裕を失っている
君が家の中にいることを感じているから
理由を考えてる、別に大して辛い話じゃないんだ
君は僕の心を見失いかけているけれど、それでも君を愛している理由をね
君に愛してもらうことの意味を、どうわかってもらえばいい?
キツく感じるほど僕にはぴったり合っているということを
Sitting on a pebble by the river playing guitar
Wondering if we're really ever gonna get that far
Do you know there's something wrong
'Cos I felt it all along
川沿いの石に腰を下ろしながら、ギターを弾いてる
ここから先へ僕らが本当に立ち行けないなら、それは何故かを考えてる
2人の間にはよくない何かがあったことを、君はわかっているの?
僕はずっとそれを感じながら過ごしていたんだ
I can see your face in the mirrors of my mind
Will you still be there?
We're really not so clever as we seem to think we are
We always got our troubles so we solve them in the bar
As the days go by we seem to drift apart
If I could only find the way to keep hold of your heart
僕は、胸の内にある鏡に反射させて君の顔を見ることができるんだ
君は、まだそこにいてくれる?
僕らは、自分達が思うほど利口ってわけじゃないよ
僕らはいつもトラブルを起こし、それを法廷で解決して
時間が経つうちに、僕らの気持ちは離れていくようで
君の気持ちを繋ぎ止める方法だけでもわかれば、どんなにいいだろうと思うよ
Sitting on a pebble by the river playing guitar
Wondering if we're really ever gonna get that far
Do you know there's something wrong
Cause I felt it all along
川沿いの石に腰を下ろしながら、ギターを弾いてる
ここから先へ僕らが本当に立ち行けないなら、それは何故かを考えてる
2人の間には間違った何かがあることを、君はわかっているの?
僕はずっとそれを感じながら過ごしていたんだ
Sitting in the valley as I watch the sun go down
I can see you there
Thinking of a reason well it's really not very hard
To love you even though you nearly lost my heart
When will we know when the change is gonna come
I've got a good feeling and it's coming from the sun
谷あいに腰を下ろし、沈み行く太陽を見ている
僕には、そこにいる君の姿が見えるんだ
理由を考えてる、別に大して辛い話じゃないんだ
君は僕の心を見失いかけているけれど、それでも君を愛している理由をね
僕らはいつ知るんだろう?2人に変化が訪れる時のことを
そう思えば僕の気分は晴れるんだ、まるで雲間からこぼれる陽射しを浴びるように
Sitting on a pebble by the river playing guitar
Wondering if we're really ever gonna get that far
Do you know there's something wrong
We'll stick together 'cos we're strong
川沿いの石に腰を下ろしながら、ギターを弾いてる
ここから先へ僕らが本当に立ち行けないなら、それは何故かを考えてる
2人の間には間違った何かがあることを、君はわかっているの?
僕らは寄り添いあうんだ、2人の思いはそれほど強いものだから
<対訳>多々野親父
●偉大な父を持つ子供の悲哀、それをこれほどはっきり自分が体現することになろうとは、当の本人も想像できなかったのではないだろうか。受け継がれた血は、時に父の成し得なかったことを子が実現させることもある。そうした例はNFLインディアナポリス・コルツのQBペイトン・マニングなどいくつも存在するわけだが、逆のケースもまた枚挙に暇がない。ジュリアン・レノンの場合は、間違いなく後者ということになる。
ジュリアンは、ジョン・レノンが最初に結婚した相手シンシア・レノンとの間に1963年4月8日に生まれている。彼の幼少期はビートルズの人気が沸騰した時期と重なるが、アイドルとして扱われていた為にジョンが結婚していることは公にされず、当然ジュリアンの存在も隠されていた。その後、イギリスのメディアがこの件に気がつき報道するが、既に4人はアーティストとして捉えられており、それがファンの数を減らす作用は及ぼすことはなかった。逆に縛りが無くなったことから、ジョンは自分達の映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の撮影現場にジュリアンを呼ぶなど、父親としての一面を覗かせる一幕を招いている。
ジュリアンは母親のシンシアと1969年に離婚したジョンについて「あの時以降、父とは数えるほどしか会っていない。そして会ったとしても心は遠くに離れていて、僕を脅えさせる方が多かったようにも思う」と振り返っているが、ヨーコに心を奪われたジョンにとって忘れられた存在になっていたジュリアンの境遇を見たポールが、彼をモチーフにして「ヘイ・ジュード」を作曲した話は有名である。また「ホワイト・アルバム」の最後を子守り歌「グッドナイト」は、ジョンがジュリアンの為に書いた曲だった。本来なら作者であるジョンが歌うべきものだったが、シンシアとの関係が緊張していたことを受け、彼に代わってリンゴがボーカルをとる選択がされている(リンゴのとぼけた声が、あの曲の魅力を際立たせたという意味においても、懸命な選択だったと言える)。更に、ジョンが1972年にリリースしたアルバム「心の壁、愛の橋」に収められていた「ヤ・ヤ」では、ジュリアンが叩いたドラムの音が採用されているのだが、こうした事実とジュリアンの言葉の間には、何か符合しないものがあるように感じられる。
ジュリアンは表舞台に立つこともなく1970年代を過ごしているが、そこに突然転機が訪れることになる。1980年12月8日にジョンが自宅のあったダコタハウスの前で射殺されたのだ。この4年後にジュリアンはレコードアーティストとしての歩みを始めるわけだが、そのプロジェクトが何も問題なく進められた背景には、やはり父の死後であったことも関与していたように思われる。もしジョンが生きていれば、ジュリアンは彼と比較するメィデアやファンの目に晒され、単純に彼の音楽性だけが俎上にあげられることはなかったはずだからである。彼は、ビリー・ジョエルや映画「フラッシュ・ダンス」のサントラでを手がけたフィル・ラモーンをプロデューサーに招いてデビューアルバム「ヴァロッテ」の製作を開始する。そしてここからファーストシングルとしてカットされたのがタイトル曲だった。
この曲は1984年11月3日にTop40入りを果たすと33位→29位→24位→18位→16位→12位→10位→年末休→10位→9位→19位→28位というチャートアクションを見せている。しかし、最高位9位のスマッシュヒットという記録だけで「ヴァロッテ」を語ることはできない。何故なら、ここで聞かれるジュリアンの声があまりにもジョンに似ていたからである。これがあるが為、「ヴァロッテ」は楽曲として十分に素晴らしい仕上がりを見せていたというのに、誰もが「ジョンに似ている」ことだけを記憶に書き込んでしまったのだ。これが彼にとっては悲劇だった。
「ヴァロッテ」に続いてリリースされたシングル「トゥー・レイト・フォー・グッドバイ」は1985年に最高位6位をマークするものの、これ以降ジュリアンにはジョン・レノン的なものが求められてしまうようになっていくのである。
ジュリアンは1986年にセカンドアルバム「ザ・シークレット・ヴァリュー・オブ・デイドリーミング」をリリースし、ここからシングルカットされた「スティック・アラウンド」は最高位32位にまで上昇するのだが、結局アメリカでのヒットはこれが最後になってしまう。やはりアメリカのリスナーは、ジュリアンを通してジョンを欲しがっただけだったのかもしれない。しかし本国イギリスでは1991年に「ソルトウォーター」が最高位6位をマーク、両国でのジュリアンに対する温度差を感じさせる結果を招いている。
ジュリアンは、デビュー後もビートルズの元メンバーとの親交を続けており、「ヴァロッテ」がリリースされることを聞いたポールは「がんばれ!」と電報を送り、また1991年に4枚目のアルバムとして製作された「ヘルプ・ユアセルフ」にはクレジットこそされていなかったものの、ジョージがゲストプレイヤーとして参加している。また、ジョンとヨーコの間に生まれた、ジュリアンにとっては腹違いの兄弟にとなるショーン・レノンが2007年に行ったツアーに同行するなど、40代を迎えて過去のわだかまりを解消する動きも見せている。
こうした背景から、一時ジョンの代りにジュリアンを起用してビートルズが再結成するという噂が流れたものの、結局ポール達はヨーコが提供したジョンの未発表デモテイク「リアル・ラヴ」と「フリー・アズ・ア・バード」に自分達の演奏を被せるという「時空を超えた」形を選択して「ビートルズ・アンソロジー」プロジェクトを成し遂げている。ジョージもこの世を去った今、再びジュリアンを交えてビートルズが動き出す可能性はないものと思われる。
(ロール・ウィズ・イット/スティーブ・ウィンウッド)
Top40初登場:1988年6月18日
Top40内推移:33位→29位→21位→12位→6位→4位→1位→1位→1位→1位→7位→16位→29位→39位
1位獲得:1988年7月30日(4週)
カバーバージョン:none
Video@You Tube:Here
対訳:アリ
1987年にスティーブ・ウィンウッドが20年来の付き合いだったアイランド・レコードを離れたと聞いた時には、もしかするともうミュージシャンとしではなくプロデューサーや作曲家としての活動に切り替えてしまうのか?と心配したものだったが、それに続いてヴァージン・レコードへ実に1300万ドルもの巨額な契約料で移籍したというニュースが流れ、今度は腰を抜かしてしまったわけである。1960年代から第一線で活躍を続け、1986年には「ハイアー・ラヴ」で全米1位を獲得したことを思えば彼を手にしたくないと考えるレコード会社などなかったものと思われるが、それにしたところでこの数字は大き過ぎると率直に感じたからなのだ。だが、結果はヴァージンの大勝利に終わっている。1988年に移籍第一弾としてスティーブが世に送り出したアルバム「ロール・ウィズ・イット」は、なんと300万枚を越える大ヒットを記録したのだ。
前作の「バック・イン・ザ・ハイ・ライフ」からこのアルバムの製作に至るまで、スティーブには心境の変化を促す大きな出来事が訪れている。彼は1978年に友人の紹介で知り合ったロサンゼルス出身のニコル・タコットと結婚していたが、生まれた国だけでなくライフスタイルそのものが違う2人は結局ソリを合せることができず、スティーブは1986年末に離婚を決意する。そして1987年1月にはユージニア・クラフトンと再婚を果たすのだ。この時、ユージニアはまだ大学生だったのだが、ニューヨークのカフェで出会ったその時にスティーブが一目ぼれし、20歳近い年齢差がありながら結婚を申し込んだというドラマチックなラブストーリーが知られている。2人の間にはその年のうちに長女が生まれ、スティーブは家庭の充実を背景にアルバム製作を進めたのだ。
こうして生み出された「ロール・ウィズ・イット」は、ロックンロールやR&Bのテイストを大胆に取込んだ作品に仕上げられており、これはそれまでのスティーブのイメージを変えるだけでなく、古くからのファンにスペンサー・デーヴィス・グループ時代の彼の姿を思い起こさせるものとなっていた。そしてここからカットされたタイトル曲が、1988年を代表する大ヒットを記録するのである。
この年は1987年にも増してヒット規模の縮小が進み、レコードの売り上げも減少傾向を続けていた。これはCD時代が本格的に始まり、リスナーのレコード離れが進む中で、ビルボードの売り上げ集計がそれにマッチしていなかったという側面もあったわけだが、そうした中で「ロール・ウィズ・イット」が4週間も全米1位を走った点は大きく評価されるべきものだった。これは1987年2月にボン・ジョヴィが「リヴィング・オン・ア・プレイヤー」でマークして以来1年5ヶ月ぶりの長期政権だったからである。だがそれでもミリオンセラーにはならなかった点に、改めてレコードが売れなくなっていたことを思い知らされるのだ。
ホーンを大胆にフィーチャーし、オルガンを隠し味にしたサウンドは古きよき時代を思い起こさせる一方、強いビートで曲を引っ張るドラムの音は1988年現在のクリアな音、という新旧両方のテイストと満載したこの曲は、ディスコからクラブへとハコの規模を移行させ始めた当時のダンスシーンによくフィットするものとなっていた。この曲では本来の主戦場であるキーボードセクションだけでなく、ギター、ベース、ドラムに至るまで全てスティーブが担当しており、リスナーにまざまざとその多才ぶりを見せつけた作品としても記憶に残るものとなっている。
スティーブはこのアルバムで「アーク・オブ・ダイヴァー」からの付き合いである作詞家のウィル・ジェニングスと四度コンビを組んでいるが、1曲だけトラフィック時代の盟友であるジム・キャパルディとの共作「ハーツ・オン・ファイア」を収録している。スティーブは1983年にジムのソロアルバム製作に協力し、ここから「ザッツ・ラブ(最高位28位)」というシングルヒットが生まれているが、この時はシンセを前面に押し出した1980年代前半型スティーブのスタイルが反映されていたものの、「ハーツ・オン・ファイア」は極めてR&B色が濃い作品となっているだけでなく、ユージニアとの出会いで心が燃え上がった様が赤裸々に語られる内容となっており、ここからもいかに当時のスティーヴが家庭の安定を喜んでいたのかが伺える。
Roll With It
Steve Winwood
When life is too much, roll with it, baby
Don't stop and lose your touch, oh no, baby
Hard times knocking on your door, I'll tell them you ain't there no more
Get on through it, roll with it, baby
人生ってヤツが手に負えない時でも、流れに乗っていこうよ、ベイビー
歩みを止めず、手を離さずにね、ダメだよ、ベイビー
辛い事がやって来てもさ、オレが言ってやるよ、もう君はここにいないよってさ
乗り切っていこうよ、流れにまかせてさ、ベイビー
Luck'll come and then slip away, you've gotta move, bring it back to stay
You just roll with it, baby, come on and just roll with it, baby
You and me, roll with it, baby, hang on and just roll with it, baby
運ってヤツは巡ってきちゃ滑り落ちていくモンさ、行動を起こさなきゃ、逃げる運をしっかり取込むのさ
流れに乗るだけでいいんだ、ベイビー、さぁ、乗っていこうよ、ベイビー
君とオレでさ、流れに身をまかせるんだ、止まらぬよう耐えながら流れに乗っていこうぜ、ベイビー
The way that you love is good as money
I swear by stars above, sweet as honey
People think you're down and out, you show them what it's all about
You can make it, roll with it, baby
When this world turns its back on you, hang in and do that sweet thing you do
君の愛し方、そのよさは金に匹敵するよね
お空の星に誓うよ、ハチミツみたいにとろけるものだって
皆は君を落ち込んでると思ってる、ヤツらに実際どうなのかを見せつけるのさ
うまくやれるよ、流れに乗っていくのさ、ベイビー
この世が君に背を向けてるとしても、挫けずに君のできる素敵なことをやってやるんだ
You just roll with it, baby, you just roll with it, baby
Come on and just roll with it, baby, you and me, just roll with it, baby
流れに乗るだけでいいんだ、ベイビー、乗っていこうよ、ベイビー
さぁ、流れに身をまかせるんだ、ベイビー、君とオレでさ、流れに乗っていこうぜ、ベイビー
Now there'll be a day you'll get there, baby, you'll hear the music play, you'll dance, baby
You'll leave bad times way behind, nothing but good times on your mind
You can do it, roll with it, baby
Then you'll see life will be so nice, it's just a step up to paradise
目的地に辿り着く日はいつか来るんだ、ベイビー、そこで喜びの音楽を聴き、喜びのダンスを踊るのさ、ベイビー
ツイてないものは全部後ろへ置いていくのさ、そうすりゃ君にはいいものだけしか残らないだろ
できるって、乗っていくんだよ、ベイビー
そして、人生ってヤツが実にいいモンだってわかるのさ、パラダイスに向って一段ずつ上がっていく、その一歩が必要なんだ
You just roll with it, baby, you just roll with it, baby
You and me, just roll with it, baby, Come on and just roll with it, baby
流れに乗るだけでいいんだ、ベイビー、さぁ、乗っていこうよ、ベイビー
君とオレでさ、流れに身をまかせるんだ、さぁ、流れに乗っていこうぜ、ベイビー
<対訳>多々野親父
(君は完璧さ/カルチャー・クラブ)
Give me time to realise my crime
Let me love and steal
I have danced inside your eyes
How can I be real
自分が犯している罪をよく理解する時間が欲しい
君を愛し、その心を盗むという罪を
僕は、君の瞳の中で踊ってはいた
でもそれを現実にするには、どうしたらいい?
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Precious kisses, words that burn me
Lovers never ask you why
In my heart the fire's burning
Choose my colour, find a star
Precious people always tell me
That's a step, a step too far
本当に僕を傷つけたいの?
本当に僕を泣かせたいの?
ほんのわずかなキスや言葉が、僕に火をつけるんだ
恋人なら、何故そうなの?なんて聞かないものだよ
心の中でも炎が燃えているんだ
僕のいいところを選んで、そこに星のように光るものを見つけて欲しい
立派な人は僕にこう言うのさ
進むのはいい、だけどそれは行き過ぎだって
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
本当に僕を傷つけたいの?
本当に僕を泣かせたいの?
君は本当に僕を傷つけたいの?
君は本当に僕を泣かせたいの?
Words are few I have spoken
I could waste a thousand years
Wrapped in sorrow, words are token
Come inside and catch my tears
君に告げてきた言葉は数少ないけど
それで1000年もの時間を無駄に過ごしても構わない
悲しみに包まれて、言葉もまるで形見のようで
僕の心を覗いてみて?そして僕が流す涙をぬぐって欲しいんだ
You've been talking but believe me
If it's true you do not know
This boy loves without a reason
I'm prepared to let you go
君はあれこれ小言を言ってきたけれど、僕を信じて欲しいんだ
僕の言葉が本当でも、君にはそれがわからないのだから
ここにいる僕は愛してる、理由なんてなしで
そして僕には、君を手放す準備もできている
If it's love you want from me
Then take it away
Everything is not what you see
It's over again
君が僕から求めるものがもし愛だというなら
持ち去ってくれよ
君がわかっていることだけが全てではないし
何度も繰り返されるものだから
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
本当に僕を傷つけたいの?
本当に僕を泣かせたいの?
君は本当に僕を傷つけたいの?
君は本当に僕を泣かせたいの?
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
本当に僕を傷つけたいの?
本当に僕を泣かせたいの?
君は本当に僕を傷つけたいの?
君は本当に僕を泣かせたいの?
Do you really want to hurt me
Do you really want to make me cry
本当に僕を傷つけたいの?
本当に僕を泣かせたいの?
<対訳>多々野親父
●ボーイ・ジョージ率いるカルチャークラブの名を世界的に広めた大ヒット曲で、本国イギリスでは1982年10月18日から3週間に渡って1位を走っています。アメリカでは1983年1月15日(ちょうど共通一次試験の日でした。よく覚えてます)にTop40入りを果たし、35位→31位→24位→21位→18位→8位→5位→4位→4位→3位→2位→2位→2位→10位→14位→18位→34位→37位というチャートアクションを見せています。イングリッシュ・インベージョンが本格的に幕を開けたこの時期にはフロック・オブ・シーガルス、ミュージカル・ユース、デュラン・デュラン、プリテンダースのシングルがランクインしていますが、その中で最も大きなヒットを記録したのが「君は完璧さ」でした。2週後にTop40入りするマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」が強すぎた不運はありますが、1位になれるパワーは十分あったように思います。3週間2位は返す返すも惜しかったですよねぇ。
後年、ボーイ・ジョージは「君は完璧さ」について「とてもうまく作り上げられた曲だと思う。多分、僕らにとってただ1曲の”もっとも適したコード選択、コード進行をほどこしたもの”だろうね。とっても音楽的な曲だよ」と話しています。しかし、当の本人はこの曲をシングルカットすることに最初は後ろ向きでした。何故ならここで歌われているのは、彼とドラマーのジョン・モスの間で営まれた6年間の関係をモチーフに歌詞が書かれていたからです。そして当時は、そうした情報が公から隠されていたんですね。
で、確かにこの曲は、主人公が恋人の関係でいて欲しいとすがっている相手が、男なのか女なのかわからない形になってます。うーん(苦笑)。
ちなみに、1998年に封切られた1980年代洋楽満載の映画「ウェディング・シンガー」に、この曲のプロモーションビデオでのボーイそっくり!というキーボードプレイヤーが登場します。そしてもちろん劇中で「君は完璧さ」を歌うわけですが、彼の名前がジョージだった段階で既に爆笑してました、私。
それから、この曲だけでなくカルチャー・クラブ全体に言えるのですが、歌詞にはほとんど重きが置かれていないんですね。イメージだけを寄せ集めた(時たま音韻も意識しているようですが、それが更に意味を曖昧にするという・・・)、という感じで非常に訳がやりにくいんですね、これが。実際、「カーマは気まぐれ」もヒットしていた当時は歌詞についての批判がのぼっていたこともありますし。なので取りあえずもう彼らの曲を取り上げることはないと思います。
(ホールド・オン・トゥ・ザ・ナイツ/リチャード・マークス)
Top40初登場:1988年6月11日
Top40内推移:31位→25位→19位→15位→8位→5位→1位→2位→3位→9位→14位→21位→30位→40位
1位獲得:1988年7月23日(1週)
カバーバージョン:none
Video@You Tube:Here
対訳:アリ
リチャード・マークスを1980年代後半のアメリカン・ミュージック・シーンを語る上で外せない存在にした、記念すべき全米No.1ソングがこの「ホールド・オン・トゥ・ナイツ」である。1987年7月に「ドント・ミーン・ナッシング」で彗星のようにヒットチャートへ舞い下りるや否や最高位3位をマーク、続いて「シュドヴ・ノウン・ベター」でも3位、「エンドレス・サマー・ナイツ」では2位と、シングルカットが進むにつれてヒットの規模を拡大していった彼が、デビューアルバムのリリースからちょうど1年後に王座を奪取したということになる。
だが、この経緯は「フーリッシュ・ビート」でやっと1位を獲得したデビー・ギブソンの動きに似ていると感じさせられたもので、2人の「シングルをカットすればするほど右肩上り」という状況は、何となくバブルで大騒ぎになっていた当時の日本の空気に何故かマッチするものがあったように思うわけである。
リチャード・マークスは1963年9月16日にイリノイ州で生まれている。彼の音楽人生のスタートは、CM製作を仕事としていた彼の父親が作ったコマーシャル・ジングルを歌うというちょっと変わったものだった。しかし、幼少の頃から聴くに耐える歌唱力を持っていたことを示す格好のエピソードではないかと思われる。
リチャードに転機が訪れたのは17歳になった1980年のことだった。彼はまだイリノイで暮らしていたが、自作の曲をデモテープにする作業を続けているうちに、どういうルートを辿ったのかまだコモドアーズに在籍していたライオネル・リッチーの手元にそれが届いたのである。これを聴いたライオネルはリチャードの才能に気がつき、連絡を入れて「必ず成功するという約束はできない。でも、ロサンゼルスに来るべきだ」と告げたのだ。
リチャードは高校を卒業するとロサンゼルスに行き、ライオネルのいるスタジオへ足を運ぶ。この時ライオネルはソロアルバムの製作に入っていたのだが、その時バックボーカルがいないというトラブルを抱えていた為、ちょうどいいところに来たということでリチャードにその仕事をさせ、指示を受けたリチャードはマイクの前に立ち、その仕事を果たしている。彼がこの時歌った曲は「ユー・アー」で、他にも「ランニング・ウィズ・ザ・ナイト」や「オール・ナイト・ロング」といったヒット曲の録音にも参加している。
この後、リチャードはスタジオのセッションシンガーとしてマドンナやホイットニー・ヒューストンのレコード製作に参加する一方、作曲の仕事も始めている。その最初の大物客はライオネルの親友であるケニー・ロジャースで、彼が新曲を探しているという話をまた聞きで知ったリチャードは、その日のうちに「クレイジー」という曲のデモテープを送り、受け取ったケニーはこれを録音している。この曲は1984年にカントリーチャートで1位となるヒットとなった上、ケニーは更にリチャードの「ホワット・アバウト・ミー」もジェームス・イングラム、キム・カーンズとのトリオで歌い、これをナショナルチャートでも最高位15位をマークするスマッシュヒットにしている。
リチャードの存在はあっという間にロサンゼルスのレコーディングアーティスト達が知ることとなり、プロデューサーのデヴィッド・フォスターがリチャードへ一緒に仕事をしようと持ち掛け、これによってリチャードはシカゴやフレディ・ジャクソンにも曲を書くことになる。その間、自分と契約を結んでくれるレコード会社を探し続けてもいたのだが、ロサンゼルス移住から4年が経った1986年にEMIの会長だったブルース・ランドヴァルがデモテープを聴き、ライオネル同様リチャードには才能があると認めて獲得に手を挙げるのである。
ブルースが思うがままにレコードを製作していいというスタンスをとったことから、リチャードは親友だった(1983年に「シーズ・ア・ビューティ」をヒットさせた)チューブスのフィー・ウェイビルに声をかけ、更に元イーグルスのジョー・ウォルッシュとランディ・マイズナーなどにも参加を願ってデビューアルバムを完成させている(その為、当初はリチャードのイメージよりもイーグルスが再結成したのか?という驚きの方が強かった。それほどサウンドが似てしまっていたのだ、特に「ドント・ミーン・ナッシング」は!)。
ロック色の濃いアーティストだというイメージをセカンドシングルまでの間にリスナーへ植え付けたリチャードは、3枚目、そして4枚目の「ホールド・オン・トゥ・ザ・ナイツ」でバラードでも勝負できることを示したものの、この「何でもできるという器用さ」が逆に彼のキャラクターをぼんやりとしたものに変えたようにも思われる。特にこの曲は非常に地味で、前3曲の成功がなければここまで上昇したかどうかは今も疑問が残るのだ(このポイントもデビー・ギブソンにものすごく似ている)。
ただ、1988年7月のチャートは極めて流動的だった為に強い曲が存在しなかった。これが「ホールド・オン・トゥ・ザ・ナイツ」を後押ししたともいえるわけで、「王者なき時に、その間隙を縫って1位獲得」という見方が妥当なのかな、という思いを私はヒットしていた当時からずっと抱いて今に至っている。
Hold On To The Nights
Richard Marx
Just when I believed I couldn't ever want for more
This ever changing world pushes me through another door
I saw you smile and my mind could not erase the beauty of your face
Just for a while won't you let me shelter you
僕が、もうそれ以上望めないだろうとただ信じていた時
僕の世界は変わりいき、別の扉へと僕を押し通していく
僕は君が微笑むさまを見ていた、僕の心は君の顔に宿る美しさを消し去るなんてできないだろう
ほんの少しの間でいいから
僕をかくまってはくれないだろうか?
Hold on to the night
Hold on to the memories
I wish that I could give you something more
and I could be yours
あの夜に捕われている
君との思い出に囚われている
君にもっと与えることができたならよかったのに
僕そのものを捧げることができたらよかったのに
How do we explain something that took us by suprise
Promises in vain,love that is real but in disguise
What happens now do we break another rule
and let our lovers play the fool
I don't know how to stop feeling this way...
僕たちに驚きをもたらせたものを、どう口にすればいい?
無駄に終わる約束と、確かにありはしたけれど見せ掛けでしかなかった愛
今起きていること、それで僕らはまた別のルールを破るの?
そして、恋人としての僕らに馬鹿げた振る舞いをさせるの?
僕は今、こんな風に感じる気持ちを止める方法がわからないでいる
Hold on to the night
Hold on to the memories
If only I could give you something more
Well, I think that I've been true to everybody else but me
and the way I feel about you makes my heart long to be free
Everytime I look into your eyes I'm helplessly aware
That the someone I've been searching for is right there...
あの夜に捕われている
君との思い出に囚われている
君にもっと与えることができたならよかったのに
こう思うんだ、僕は誰に対しても正直であり続けた、・・・自分自身を除いて
そして君へ向けるこの思いが、僕の心に解放してくれと願わせる
君の瞳を見る度いつも、僕はどうしようもないほどわかってしまうんだ
ずっと探し続けていた人が、すぐそこにいるんだということを
Hold on to the night
Hold on to the memories
I wish that I could give you more
whoa...
Hold on to the night
あの夜に捕われている
君との思い出に囚われている
君にもっと与えることができたならよかったのに
ああ・・・
あの夜に捕われている
<対訳>多々野親父
(すてきな娘に出会ったら/ドクター・フック)
When you're in love with a beautiful woman, it's hard.
When you're in love with a beautiful woman, you know it's hard.
Everybody wants her,
Everybody loves her,
Everybody wants to take your baby home.
美人と恋に落ちたら、そりゃ大変だな
美人と恋に落ちちゃったら、わかるよな、難儀な話だってことがさ
誰もが彼女にしたがるし
誰もが彼女を好きになっちゃうし
誰もがお前の彼女を家に連れて帰りたがるからなぁ
When you're in love with a beautiful woman, you watch your friends.
When you're in love with a beautiful woman, it never ends.
You know that it's crazy.
You wanna trust her.
Then somebody hangs up when you answer the phone.
When you're in love with a beautiful woman, you go it alone.
美人と恋に落ちたら、ダチにも注意を払ってさ
美人と恋に落ちたら、その心配が終わることは決してないよ
わかるだろ?そんなの正気の沙汰じゃないってことがさ
彼女を信用したいと思う
でも電話に出たら、相手がすぐにそれを切ったりさ
美人と恋に落ちたら、一人で不安になってなきゃいかんのさ
Maybe it's just an ego problem.
The problem is I've been fooled before,
By fair-weather friends and faint-hearted lovers.
And every time it happens,
It just convinces me more.
多分、これってエゴの問題なんだよな
おいらも以前にそれでバカを見たし
隠し事なんてしない友達とか、ビクビクしながら付き合ってた恋人同士を疑って
そしてそういうことが起きる度に
こりゃ大変だなぁって納得してるわけさ
When you're in love with a beautiful woman, you watch your eyes.
When you're in love with a beautiful woman, you look for lies.
Everybody tempts her,
Everybody tells her she's the most beautiful woman they know.
When you're in love with a beautiful woman, you go it alone.
美人と恋に落ちたら、自分の目に磨きをかけて
美人と恋に落ちたら、嘘を見抜こうってね
誰もが彼女を誘うんだ
誰もが彼女にこう言いたがるんだ、知ってる女の子の中で一番美人だ!ってさ
美人と恋に落ちたら、一人で不安になってなきゃいかんのさ
When you're in love with a beautiful woman, it's hard.
When you're in love with a beautiful woman, you know it's hard.
You know that it's crazy.
You wanna trust her.
Then somebody hangs up when you answer the phone.
When you're in love with a beautiful woman, you go it alone.
美人と恋に落ちたら、そりゃ大変だよ
美人と恋に落ちたら、わかるよな、難儀な話だってことがさ
わかるだろ?そんなの正気の沙汰じゃないってことがさ
彼女を信用したいと思う
でも電話に出たら、相手がすぐにそれを切ったりさ
美人と恋に落ちたら、一人で不安になってなきゃいかんのさ
Maybe it's just an ego problem.
The problem is I've been fooled before,
By fair-weather friends and faint-hearted lovers.
And every time it happens,
It just convinces me more.
多分、これってエゴの問題なんだよな
おいらも以前にそれでバカを見たし
隠し事なんてしない友達とか、ビクビクしながら付き合ってた恋人同士を疑って
そしてそういうことが起きる度に
こりゃ大変だなぁって納得してるわけさ
When you're in love with a beautiful woman, you watch your eyes.
When you're in love with a beautiful woman, you look for lies.
Everybody tempts her,
Everybody tells her she's the most beautiful woman they know.
When you're in love with a beautiful woman, you go it alone.
美人と恋に落ちたら、自分の目に磨きをかけて
美人と恋に落ちたら、嘘を見抜こうってさ
誰もが彼女を誘うんだ
誰もが彼女にこう言いたがるんだ、知ってい女の子の中で一番美人だ!ってさ
美人と恋に落ちたら、一人で不安になってなきゃいかんのさ
When you're in love with a beautiful woman, you watch your friends.
When you're in love with a beautiful woman, oh it never ends
When you're in love with a beautiful woman, you watch your eyes.
When you're in love with a beautiful woman, keep lookin' for lies.
When you're in love with a beautiful woman...
美人と恋に落ちたら、ダチにも注意を払ってさ
美人と恋に落ちたら、その心配が終わることは決してないよ
美人と恋に落ちたら、自分の目に磨きをかけて
美人と恋に落ちたら、嘘がないかと探し続けてさ
<対訳>多々野親父
●好きでしたね、この曲は。おそらく、生まれて初めて経験したカントリーの味だったのではないかと思います。
ドクター・フック&メディシン・ショーは、ジョージ・カミングスの呼びかけによって1968年にニュージャージーで結成されたバンドでした。以降、地元周辺でライブ活動を続けていた彼らは、製作していたデモテープがディレクターのロン・ハフキンの耳にとまり、ちょうど製作中だったダスティン・ホフマン主演の映画「ケラーマン」に登場させるバンド役として、ドクター・フックが理想的な存在であると考え、彼らをカメラの前に立たせることを決めます。更に、劇中で何曲かを歌わせ、主題歌「ラスト・モーニング」も彼らに任せるに至ります。当時はまだCBSレコードにいた後のアリスタレコード”総帥”クライヴ・デーヴィスが、こうした彼らの動きを知って面接を行った結果、ドクター・フックは見事レコーディング契約を結ぶことに成功します。
自分達の名前をタイトルにしたデビューアルバムをリリースしたのは1971年のことで、ここから「シルヴィアス・マザー」がヒット、更に2枚目のアルバム「スロッピー・セカンド」からの2枚目のシングルとなった「ザ・カバー・オブ・ローリング・ストーン」が1973年3月に最高位6位をマークして、彼らの名前が全米に知れ渡ることになります。これ以降、チャート的には一時的なスランプを経験するものの、1976年にサム・クックのカバー「オンリー・シクスティーン」が再び6位まで上昇するヒットにすると、「ア・リトル・ビット・モア(最高位11位)」、「シェアリング・ザ・ナイト・トゥゲザー(最高位6位)」と立て続けにチャートを賑わせる活躍を見せたのでした。
迎えた1979年、ドクター・フックは何とも微笑ましい曲でTop40に帰還します。それが「すてきな娘に出会ったら」でした。この曲は6月2日にTop40入りを果たすと 38位→33位→26位→22位→19位→17位→14位→11位→9位→8位→6位→6位→11位→17位→27位→33位 というゆったりとした放物線を描いていったヒットで、彼らにとっては4枚目の挑戦でまたしても最高位6位の壁を破れなかったというちょっと悔しい思い出もあるだろう曲です。作曲したのはカントリー系ソングライターのイーヴン・スティーヴンスで、ドクター・フックにとっては「ザ・カバー・オブ・ローリング・ストーン」、「シルヴィアズ・マザー」と並んでヒット曲を提供してくれた大恩人ということになります。
ドクター・フックと言えばなんと言ってもリードボーカルのレイ・ソウヤーの存在を抜きにしては語れません。彼は右目に黒いアイパッチをつけ、カウボーイ帽をかぶるというファッションを続けていましたが、その風貌がそのままこのグループを最も強く印象づけるものになっていたからです。彼がアイパッチをつけていた理由は、1967年に命を落としかけるほどの交通事故に遭った為といわれています。
この曲のヒットの後、1980年5月から6月にかけて「セクシー・アイズ」が最高位5位をマークするに至り、ドクター・フックは壁を乗り越えることに成功しますが、1982年の「ベイビー・メイクス・ブルー・ジーンズ・トーク(最高位25位)」を最後にTop40から姿を消すことになってしまいます。更に1983年になるとレイがバンドを離れ、ドクター・フックはカントリーバンドとしての道をひた走ることになってしまいます。1990年代に入ってレイが復帰し、ドクター・フック・フィーチャーリング。レイ・ソウヤーとなって活動を続けています。
それにしても今回記事にした「すてきな娘に出会ったら」の歌詞は最高ですね。こういう曲が当り前のようにチャートを賑わせていた時代って、実は今よりも遥かに平和だったのかなぁ、と思ったりします。実際は省エネだ何だと、煩わしいことが多かったように記憶しているんですけどね。
(エレクトリック・アヴェニュー/エディ・グラント)
Down in the street there is violence
And a lots of work to be done
No place to hang out our washing
And I can't blame all on the sun, oh no
通りの向うじゃ、暴力沙汰さ
そしてやらなきゃいけない仕事がゴマンとある
オレ達の洗濯物を吊るす場所もありゃしねぇ
乾かなくても、おいらは全部お日様のせいになんかできゃしない
We gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
Oh we gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そしてそこで気分を盛り上げるんだ
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そしてそこで気分を盛り上げるんだ
Workin' so hard like a soldier
Can't afford a thing on TV
Deep in my heart I'm a warrior
Can't get food for the kid, good God
兵隊みたいに必死こいて働くのさ
テレビ番組に構ってる暇なんかねぇよ
胸の奥じゃ、おいらは戦士だと思ってる
ガキに食わせる物もゲットできねぇけどな、なんてこったい!
We gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
Oh we gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そして気分を盛り上げるんだ
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そして気分を盛り上げるんだ
Oh no...
Oh no...
Oh no...
Oh no...
あーあ
勘弁してくれよ
はぁ・・・
ダメだろこりゃ
We gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
Oh we gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そして気分を盛り上げるんだ
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そして気分を盛り上げるんだ
Who is to blame in one country
Never can get to the one
Dealin' in multiplication
And they still can't feed everyone, oh no
国の責任をとるヤツは誰なんだ?
絶対一番になんざなれねぇのに
掛け算でなんでも扱いやがって
で、そいつらはまだ皆を養えやしねぇのさ、ダメだろこりゃ
We gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
Oh we gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そしてそこで気分を盛り上げるんだ
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そしてそこで気分を盛り上げるんだ
Out in the street...
Out in the street...
Out in the playground...
In the dark side of town...
外へ出て、通りへ繰り出そうぜ
外へ出て、通りへ繰り出そうぜ
外へ出て、遊べる場所へ繰り出そうぜ
街の暗いところへさ
We gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
Oh we gonna rock down to Electric Avenue
And then we'll take it higher
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そして気分を盛り上げるんだ
エレクトリック・アヴェニューへ繰り出すのさ
そして気分を盛り上げるんだ
Rock it in the daytime
Rock it in the night ...
昼だってロックするのさ
夜だってロックするんだよ
<対訳>多々野親父
●この曲を初めて聴いた時、妙な高揚感があったことを懐かしく思い出しますね。シンセでバイクのエンジン音を表現して何気に工夫をこらしているのは理解できるものの、何もこんなにチープな音でやらなくてもいいんじゃない?といったような、今で言うところのツッコミどころ満載のサウンドは、ある意味衝撃的でもありましたし。・・・こんなんでもTop40入ってきちゃうのかよ!みたいな(苦笑)。だって、アマチュアミュージシャンのデモテープみたいだったんですもん!
「エレクトリック・アヴェニュー」を世に送り出したエディ・グラントは、南米のガイアナで1948年に生まれています。ロンドンに移住したのは1960年のことで、彼が17歳になった1965年にクラスメイトだったドラマーのジョン・ホールとベーシストのパット・ロイド、そして双子のダーヴとリンカーンのゴードン兄弟と共にイーコールズというバンドを結成します。
1967年にリリースしたアルバム”Unequalled Equals”がイギリスのチャートで最高位10位をマークすると、シングルチャートでもアルバム”Equals Explosion”からカットされた「ベイビー・カム・バック」が3週間トップを走るヒットとなる一方、でエディは偽名を使ってアルバム”Club Ska”をリリースして後のソロ活動への礎を築きます(このアルバムはイギリスで発売された初めてのスカのレコードとしても知られています)。
イーコールズはイギリスを中心にヨーロッパ各国で次々にヒットを飛ばす存在になりますが、エディは1972年にここから脱退することを宣言します。そして会社を設立し、ロンドンにコーチ・ハウスという名前のレコーディングスタジオを開き、更に自分のレーベルであるアイス・レコードを立ち上げて、1977年に”Message Man”というアルバムをリリースします。更に1979年になるとエディは、全ての楽器演奏とコーラスまでをも自分一人で担当したアルバム”Walking On Sunshine ”を製作、ここに収められていたレゲエ風ファンクの「リヴィング・オン・ザ・フロント・ライン」がディスコで火が点き、イギリスのチャートで最高位11位をマークすると、1981年には「ドゥ・ユー・フィール・マイ・ラヴ」を8位にし、その存在感を強くリスナーに印象づけることになります。そして迎えた1982年、エディはレゲエチューンの傑作「アイ・ドント・ワナ・ダンス」をリリースし、遂にソロとしても全英チャート1位を獲得するに至ります。
エディは拠点をロンドンからバルバドス島に移し、ここにブルー・ウェイヴ・スタジオを作ると、RCAレコードと契約を結んでアルバム”Killer On The Rampage”の製作に入ります。ここに収録されていたのが「エレクトリック・アヴェニュー」だったというわけですね。
この曲は1983年5月21日にTop40入りを果たすと、31位→25位→16位→11位→4位→3位→2位→2位→2位→2位→2位→6位→11位→20位→31位という見事な放物線を描く大ヒットになりました。5週間2位に甘んじたのはアイリーン・キャラの「フラッシュ・ダンス」とポリスの「見つめていたい」という強すぎる1位がいた為で、その牙城を崩すことができなかったもののミリオンセラーを記録する大健闘を見せています。
この曲の歌詞については、当時誰も深くは考えなかったのですが、エディはインタビューで「非常にシリアスな歌なんだ。実際にロンドンにある場所をテーマにしたんだから。人生での成功を夢見ながら、決してそれを果たすことはできなかった貧しい男の話なんだ」と訴えています。
一方、この曲がヒットしたことを受けて、それほど長い期間ではなかったものの、家電製品売り場を”Electric Avenue”と称していたデパートチェーンのモンゴメリー・ワード(確か、倒産したんでしたっけ?)が、歌詞の一部を変えてテーマソングとして使っています。
エディは翌1984年7月に最高位26位となった映画「ロマンシング・ザ・ストーン」の主題歌をヒットさせた後、他のアーティストのプロデュース業に活動を移行させていきます。彼はポップス、ダンス、カリプソ、レデエといった様々なジャンルを取込んだ自分のスタイルを”Soca”と呼び、リスナーも彼の音楽を開放的だと認識していましたが、その一方で1988年にはアパルトヘイト反対をテーマにした”Gimme Hope Jo'Anne(全英チャートで最高位7位)”をリリースしてハードな一面を持っていることもアピールしています。また、1990年代に入るとカリプソ音楽の収集家としても知られ始め、故ボブ・マーリーの未亡人リタ・マーリーとボブの曲の版権を争うといった武勇伝も残しています。
(永遠の愛の炎/チープ・トリック)
Top40初登場:1988年5月21日
Top40内推移: 33位→29位→19位→13位→9位→5位→3位→1位→1位→5位→11位→23位→26位→32位
1位獲得:1988年7月9日(2週)
カバーバージョン:none
Video@You Tube:Here
対訳:アリ
さて、我が青春のバンド、チープ・トリックの登場である。
1970年代後半のロック小僧の必須アイテムとは何かと問われれば、それはもちろんチープ・トリックのロゴTシャツである。いやホント、これを1978年に行われた武道館コンサートにいった友達が買い、着ている姿を見た時は、とにかくうらやましくて仕方がなかったわけなのだ。そして、そう思っていた者はおいらだけではなかった。ギターをやっていようがベースだろうが、そのTシャツを見る為に小僧は皆ヤツのところに集まってしまうのである。もちろん彼は、そんな我々にコンサートの様子を説明したり、ギタリストのリック・ニールセンの真似なんかもするわけである。たったそれだけのことで、羨望のまなざしが彼に注がれ、それを受けて彼は王として君臨する。それが許されたほど、当時のチープ・トリックの人気は高かったのだ。
何故そこまで皆が惹かれていったのかと言えば、まず4人それぞれのキャラクターの妙があったわけである。
ギターのリック・ニールセンはいつも野球帽をかぶり、子供がそのまま大人になってしまったような印象だった。演奏中に目を見開いたり姿もインパクトがあったし、何より、ギターを弾くことが楽しくて仕方がない、という雰囲気がガキどものハートをとらえたように思う。また、彼のギターコレクションはすさまじく、それがまた何ともうらやましく映ったものである。当時出始めたばかりのフライングVの存在を初めて知ったのは、彼が使っていたのを見たからだったりするのだ。いや、それ以上にネックがあんなにたくさんついたギターがこの世に存在するなんて、という驚きを教えてくれた人でもあったりする。
ドラムスのバニー・カルロスはメガネをかけて口ひげをたくわえたオジサンで、下手したら近所にいるんじゃないか!?という雰囲気を漂わせていた。どう見てもドラムなんか叩くようには見えないのに、タバコを咥えてドカドカスティックを操る様は、本当に大きなギャップを感じたものである。
逆にボーカルのロビン・ザンダーとベースのトム・ピーターソンは長髪の正統派美男子で、我々はこの2人を「アイドル部門担当」なんて読んでいた。この当時の他のバンドは、スターズにしろ何にしろバンドのカラーを統一しようというスタンスが主流だったのだが、それだけにチープ・トリックの「お笑いと美形が半々」という構成はものすごく新鮮に感じられたのだ(そのテイストは自分達でもよくわかっていて、それは2枚目のアルバムの表裏ジャケを使ったギャグで目に見える形になっている)。
そして、彼らの生み出す曲がまたよかった。1977年にリリースされた2枚のアルバムこそハードな路線だったが、3枚目の「天国の罠」は非常に音が洗練された上、ストレートでわかりやすい曲がメインになっており、特にシングルカットされた「甘い罠」はメロディ、アレンジ共に極めてスマートな仕上がりを見せ、これで小僧どもは魂を鷲掴みにされてしまったわけである。
さて、そんなチープ・トリックの足跡を振り返ってみよう。
彼らの母体となったのはリックとトムが一緒にプレイしていたグリ−ム・グロッパーズというローカルバンドなのだが、結成は1968年とめちゃくちゃ古い。このバンドはメンバーが移り変わり、更にはバンドの名前自体もヒューズとなって結局1973年まで活動するが、この期間にロビンとバニーが加入して、1974年にチープ・トリックの4人が顔を揃えることになる。
エアロスミスを手がけたプロデューサーとして知られるジャック・ダグラスに見出されてデビューを飾ったが、アメリカでのセールスは苦戦が続くことになる。しかし日本ではミュージック・ライフなどがこぞって彼らを取り上げた結果、なんと前出の武道館コンサートが開かれるほどの人気を集めるに至るのだ。その余波はこの時のライブテイクがすぐに「チープ・トリックat武道館」としてレコード化される形でも訪れる。ロック小僧はこぞってこれを聞き、チープ・トリックにやられてしまったわけだが、このレコードは当初日本だけの発売だった為、本国アメリカで彼らの名前が広がる材料にはならなかった。
ところが、チープ・トリックの友人がこのレコードを本国に持ち帰り、更にはラジオで「甘い罠」をかけたところ、これがきっかけとなって曲が売れ始め、1979年になってチャートで上昇を開始、結局7月から8月にかけて最高位7位を記録するヒットになってしまったのである。これに合わせて「ライブat武道館」が日本から輸入されると売れに売れた為、慌ててアメリカ盤が製作されるという騒ぎまで巻き起こしてしまう。結局このレコードは累計で400万枚も売れる大変なヒットになるのである。
一種のブームとなっている中で彼らは4枚目のアルバム「ドリーム・ポリス」をリリースし、ここからカットされたタイトル曲は1979年11月に最高位26位をマークするスマッシュヒットとなっている。日本から火がついたシンデレラストーリーは、1980年に開催されたジャパン・ジャム2のメインアーティストとして彼らが召集されるに至ってピークを迎えることになる。しかし、実際のチープ・トリックはリックとトムの間で望む音楽の方向性にギャップが生じており、それは修復されることなく時間だけが過ぎた結果、恩のあるはずの日本のステージにトムがやってこないというハプニングを生むのである。
結局この年、トムの脱退が正式に発表され、ジョン・ブランドが新メンバーとして加入することになるが、ここからチープ・トリック人気の凋落が始まっていく。やはり、あの4人だからこその人気、だったのだ。1980年代初頭から中盤にかけて「オール・シュック・アップ」を筆頭に5枚のアルバムがリリースされるが、結果は芳しいものではなかった。その中で目立った動きは1986年に大ヒットした映画「トップ・ガン」のサントラに1曲提供していたくらいのものだったのである。しかし1987年にトムがグループへ舞い戻り、チープ・トリックは黄金の4人によってアルバムの製作に入ることになる。それが1988年に発売された「永遠の愛の炎」だったのだ。
ここからカットされたシングル「The Flame」は1988年5月21日付のチャートでTop40入りし、33位→29位→19位→13位→9位→5位→3位とランキングを上昇させ、遂に7月23日付チャートから2週に渡ってトップに立ったのだ。更に第二弾シングルとしてカットされたのはエルヴィス・プレスリーの「冷たくしないで」のカバーで、これも最高位4位を記録するヒットとなって、チープ・トリック復活を大いにアピールすることになるのだ(ちなみに、同時期にボビー・ブラウンも曲はオリジナルだが同名の「Don't Be cruel」をチャートインさせている。後にやってくるボビーブームの礎となる名曲で、今振り返ると新旧二つのアーティストがこうして並び立っていたことは非常に感慨深いものがある)。
何故この時、チープ・トリックが再び一線に帰り立つことができたのか。音楽の根底をそれほど変えたわけではないのに低迷から脱却できた理由は、やはり「永遠の愛の炎」が凄まじくいい曲だった、ということではないかと思われる。ストリングやホルンなど余計な音を加えなかったことが、ロビン・ザンダーの叙情的な声を際立たせ、切ないメロディを強く印象づける効果を生む。そしてビートの効いたこのロッカバラードは、ドライブミュージックとしても抜群の適性を持っていた。更に、この曲を好んで聴いた大半の人が、かつての彼らのファンではなかったことも大きかったのではないかと思われる。8年もの冷え切った時代を経ていたが為に、新しいファンの獲得という副産物も手にすることができたのではないだろうか。その勢いの強さは、1990年にロビンがハートのアン・ウィルソンとデュエットした映画「テキーラ・サンライズ」のサントラ「サレンダー・トゥ・ミー」を全米6位まで上昇するヒットにしたことでも明らかだった。
1990年代以降はマイペースでのアルバム製作を続けているチープ・トリックの4人。なんと2006年には3年ぶりのアルバム「ロック・フォード」をリリースして健在ぶりを見せつけている。1949年生まれのリックは、信じられないことにもうすぐ還暦ということになるのだが、これからもずっとギターコレクションを自慢するがごときステージアクトを続けてもらいたいものである。
The Flame
Cheap Trick
Another night slowly closes in and I feel so lonely
Touching heat freezing on my skin I pretend you still hold me
I'm going crazy I'm losing sleep
I'm in too far.I'm in way too deep over you
I can't believe you're gone
You were the first You'll be the last
また夜の帳がゆっくり下りてきて、僕は寂しさで胸が張り裂ける
冷え切った肌をヒーターに触れさせて、僕は君に抱きしめられているんだと自分を騙す
気が狂ってしまいそうで、眠ることさえできなくなりそうで
君を忘れるにはあまりにも遠く、そしてあまりにも深い場所に僕はいる
君が離れてしまったことを信じることなんてできない
君は初めて愛した人であり、最後に愛する人にもなるはずだから
Wherever you go I'll be with you
Whatever you want I'll give it to you
Whenever you need someone
To lay your heart and head upon
Remember after the fire After all the rain
I will be the flame
I will be the flame
君がどこへ行こうと、僕はその側にいよう
君が欲しいというなら、何でも僕が与えよう
君が心と頭を休ませる誰かを必要なら
いつでも僕がその役を果たそう
覚えておいて欲しい、例え大火の後でも、雨が降りしきった後だって
僕の愛は、燃え上がっているということを
僕の愛は、ずっと燃え上がっているということを
Watching shadows move across the wall
Feels so fright'ning
I wanna run to you I wanna call
But I've been hit by lightning
Just can't stand up for falling apart
Can't see through this veil across my heart over you
You'll always be the one
You were the first.You'll be the last
影が壁を横切るさまを見て
ぎょっとした気分になる
君の側へ駆け寄りたい、電話をしたい
でも、現実は僕に稲妻のような衝撃を与え、
僕の身体を立ち上がれないほどバラバラにしてしまう
僕の心にはヴェールがかかり、それが君を忘れる邪魔をする
君は、僕が愛するただ一人の女であり続ける
君は初めて愛した人であり、最後に愛する人にもなるはずだから
Wherever you go I'll be with you
Whatever you want I'll give it to you
Whenever you need someone
To lay your heart and head upon
Remember after the fire After all the rain
I will be the flame
I will be the flame
君がどこへ行こうと、僕はその側にいよう
君が欲しいというなら、何でも僕が与えよう
君が心と頭を休ませる誰かを必要なら
いつでも僕がその役を果たそう
覚えておいて欲しい、例え大火の後でも、雨が降りしきった後だって
僕の愛は、燃え上がっているということを
僕の愛は、ずっと燃え上がっているということを
I'm going crazy
I'm losing sleep
I'm in too far
I'm in way too deep over you
You'll always be the one
You were the first
You'll be the last
気が狂ってしまいそうで、眠ることさえできなくなりそうで
君を忘れるにはあまりにも遠く、そしてあまりにも深い場所に僕はいる
君は、僕が愛するただ一人の女であり続ける
君は初めて愛した人であり、最後に愛する人にもなるはずだから
Wherever you go I'll be with you
Whatever you want I'll give it to you
Whenever you need someone
To lay your heart and head upon
Remember after the fire After all the rain
I will be the flame
I will be the flame
君がどこへ行こうと、僕はその側にいよう
君が欲しいというなら、何でも僕が与えよう
君が心と頭を休ませる誰かを必要なら
いつでも僕がその役を果たそう
覚えておいて欲しい、例え大火の後でも、雨が降りしきった後だって
僕の愛は、燃え上がっているということを
僕の愛は、ずっと燃え上がっているということを
<対訳>多々野親父
(ダーティ・ダイアナ/マイケル・ジャクソン)
Top40初登場:1988年5月14日
Top40内推移: 40位→29位→17位→12位→8位→4位→2位→1位→5位→15位→30位
1位獲得:1988年7月2日(1週)
カバーバージョン:none
Video@You Tube:Here
対訳:アリ
1987年にリリースされたアルバム「Bad」から、実に5枚目のシングルとしてカットされたこの「ダーティ・ダイアナ」が1位になったことで、マイケル・ジャクソンは史上初めて1枚のアルバムから5枚の全米1位を獲得したアーティストの名を得ている。また、これによってマイケルは1980年の「ロック・ウィズ・ユー」から数えてソロで8曲、ポール・マッカトーニーとのデュエットで1曲の合わせて9曲の全米1位を得たことになり、1980年代における最多1位獲得者にもなっている。つまりこのディケードは、マイケルがこの世の春を謳歌した10年間だったと言えるのだ。
しかし、ヒットの規模から言えばこの「ダーティ・ダイアナ」のチャートアクションはおよそ1位のそれではなかった。何故なら、たった11週間しかTop40に留まることができなかったからである。レコードからCDへの転換が進む中で、売り上げのカウント方法が実態を把握できていなかったという背景はあったにせよ、これほどまでに飽きられるまでの時間が早かったことは、軽薄短小と言われたこの時代の雰囲気と極めて強くリンクしていたように思えてならない。
ただ「ダーティ・ダイアナ」は、アルバム「Bad」がリリースされた直後から、仕掛けの大きなアレンジが話題を呼んでおり、更にはここで歌われているダイアナとは一体誰なのか?という疑問がそれに拍車をかけていたこともあって、ずっと話題を集めていた曲だった。その為、シングルカットには満を持して臨んだという意思のようなものを感じられたほどである。
ダイアナについては、当初ダイアナ・ロスのことではないかという直球な見方がされていたのだが、これはマイケルがまだ幼少の頃に、同じモータウンの所属アーティストということから彼女が色々と助言や世話をやいていたことに起因している。その当時、マイケルはダイアナに憧れとも恋ともつかない感情を抱いていたとされていた点もこの説を後押ししていたわけだが、プロデューサーのクインシー・ジョーンズは後にグルーピーのことを歌ったものであることを明言している。つまり、内容的には「ビリー・ジーン」と同じだったというわけである。
一方、この曲は故ダイアナ元妃が大ファンで、1988年にマイケルがイギリスのウェンブリー・アリーナでコンサートを開く際、是非歌って欲しいとリクエストを出している。自分の名前がこういう形で使われているというのに、シャレがわかっていたと言うか何と言うか・・・。
なおこの曲では、ビリー・アイドルと共闘していたスティーブ・スティーブンスがマイケルのリクエストに応えて録音に参加している。
Dirty Diana
Michael Jackson
Oh No . . .
Oh No . . .
Oh No . . .
やめてくれ
頼むから
勘弁してくれ
You'll never make me stay
So take your weight off of me
I know your every move
So won't you just let me be
I've been here times before
But I was too blind to see
That you seduce every man
This time you won't seduce me
君は、もう僕をここに留めることはできないよ、決してね
だから、僕にかけてるこの重しを外してくれ
君が何をしているのか、一つ一つをわかってる
もう僕を思うがままにさせてくれよ
確かに僕は、以前何度かここに来たことはある
でも、僕は何もわかっちゃいなかったんだ
君はどんな男もだぶらかす女だってことをね
それを知った今はもう、僕をそそのかすことはできないだろうさ
She's saying that's ok
Hey baby do what you please
I have the stuff that you want
I am the thing that you need
She looked me deep in the eyes
She's touchin' me so to start
She says there's no turnin' back
She trapped me in her heart
彼女は、問題ないって言ってる
ベイビー、貴方が喜ぶことをしなさいな、ってね
僕には、君が欲しがっているモノがある
君にとって僕は、ただ必要な”物”なんだ
彼女は、僕の心を見透かすような目を向けて
僕の体に触れれば、それが始まりの合図だと
彼女は言う、引き返す必要なんてないんだって
彼女は胸の中で、僕に罠を仕掛けてたんだ
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, no
Dirty Diana
Let me be!
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
僕を解放してくれよ!
Oh no...
Oh no...
Oh no...
やめてくれ
頼むから
勘弁してくれ
She likes the boys in the band
She knows when they come to town
Every musician's fan after the curtain comes down
She waits at backstage doors
For those who have prestige
Who promise
Fortune and fame, a life that's so carefree
She's saying that's ok
Hey baby do what you want
I'll be your night lovin' thing
I'll be the freak you can taunt
And I don't care what you say
I want to go too far
I'll be your everything
If you make me a star
彼女は、バンドをやってる男が好きなのさ
彼女は、彼らが街に来るタイミングを知っていて
どんなミュージシャンであっても彼女はファンさ、コンサートが終わってカーテンが下りると
楽屋のドアのところで待ってるんだ
人気のあるミュージシャンがやってくるのをね
誰が宣言できるって言うんだ
金があって、有名な者が無頓着に暮らしていられるなんてさ(スキャンダルとか・・・)
でも、彼女は心配するなって言うんだ
ベイビー、したいことをしてもいいのよってね
私、夜だけの”お相手”だから
貴方が罵るほど熱心なファンだから
貴方が何を言おうと、私は気にしない
今の自分とは違うもっと遠い世界に行きたいの
貴方が望むもの全てになってあげる
もし、私をスターにしてくれるならね
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, no
Dirty Diana...
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, no
Dirty Diana...
Diana!
Diana!
Dirty Diana!
It's Dia...aa...aa...ana!
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
ダイアナ!
ダイアナ!
薄汚い女、ダイアナ!
あの女の名前は、ダ・イ・アナ!!
She said I have to go home
'Cause I'm real tired you see
But I hate sleepin' alone
Why don't you come with me
I said my baby's at home
She's probably worried tonight
I didn't call on the phone to
Say that I'm alright
彼女は言ったんだ、もう家に帰らないといけないって
だって、とってもつかれちゃったんだもん、わかるでしょ?
でもね、一人で寝るのは嫌
ねぇ、何故一緒に来ないの?
僕は言ったさ、自分の彼女が家で待ってるんだ
今夜、彼女はきっと心配してるはず
だってまだ電話をかけていないから
僕は大丈夫だよ、って連絡してないからね
Diana walked up to me,
She said I'm all yours tonight
At that I ran to the phone
Sayin' baby I'm alright
I said but unlock the door,
Because I forgot the key,
She said he's not coming back
Because he's sleeping with me
ダイアナは僕の方へ歩み寄って来て
言ったのさ、今夜私は貴方のものよって
僕は電話に駆け寄って
彼女に、僕は大丈夫だよって
そう告げたんだ、だけど僕はドアの鍵をかけてはいなかった
鍵を忘れてしまったんだ
するとダイアナが彼女に電話で言ったのさ、”彼、今夜は帰らないわよ”って
”だって、彼は私と寝てるから”ってね
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, no
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, nah
Dirty Diana, nah
Dirty Diana...
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
薄汚い女だよ、ダイアナ
<対訳>多々野親父
(レッツ・グルーブ/アース・ウィンド・アンド・ファイア)
let's Groove tonight
Share the spice of life
Baby Slice it right
We gonna Groove tonight
さぁ、今夜はグルーブしようぜ!
人生のスパイスってヤツを分かち合うのさ
ベイビー、うまく分けてくれよ?
さぁ、今夜はグルーブとシャレこもうぜ!
Let this groove, get you to move,
it's alright, alright
let this groove, set in your shoes,
stand up, alright
グルーブするのさ、身体を動かすんだ
いいねぇ、それでいいんだ
グルーブするんだ、靴紐きちんと結んでさ
立ち上がれ!その調子!
Gonna tell you what you can do,
with my love, alright
Let you know girl you're looking good
you're out of sight and alright
何ができるか教えてあげるよ
僕の愛があればさ、それでいいのさ
わからせてあげるよ、君が素敵な子なんだってことを
君は際立ってるよ、サイコウさ
Move yourself and glide like a 747
lose yourself in the sky among the clouds in the heavens
自分で身体を動かして、ジャンボジェットみたいにグライドして
天に浮く雲の中で、自分の殻から飛び出すのさ
Let this groove, light up your fuse, alright
Let this groove, set in your shoes
stand up, alright
Let me tell you what you can do
with my love, alright
Gotta let you know girl you're looking good
you're out of sight, you're alright
グルーブするんだ、君の導火線に火をつけるんだ、その調子
グルーブするのさ、靴紐結んで
立ち上がるんだ、それでいい
何ができるか教えてあげるよ
僕の愛があればさ、それでいいのさ
わからせてあげなきゃね、君が素敵な子なんだってことを
君は際立ってるよ、サイコウさ
Tell the DJ to play your favorite tune
then you know it's okay
What you found is happening now
DJにお気に入りの曲をリクエストして
そうすりゃOKだろ?
君が思い描いていたものが、今現実に起きているのさ
Let this groove, get you to move, alright
Let this groove set in your shoes
stand up, alright
グルーブするのさ、身体を動かすんだ、それだよそれ!
グルーブするんだ、靴紐きちんと結んでさ
立ち上がれ!その調子!
You will find peace of mind on the floor
Take a little time, come and see, you and me
make a little sign, I'll be there after a while
if you want my love
ダンスフロアで、君は心の安らぎってヤツを見つけるのさ
ちょっと時間はかかるけど、黙って見ててごらんよ、僕ら2人をさ
ちょっと不機嫌な顔をしててよ、すぐに僕がそこへ行くから
もし、僕の愛が欲しいならね
We can boogie on down, down, down, down
Let's groove tonight
share the spice of life
baby slice it right
we're gonna groove tonight
僕らはブギーのリズムにのれる、ずっと、ずっと、ずっとね
さぁ、今夜はグルーブしようぜ!
人生のスパイスってヤツを分かち合うのさ
ベイビー、うまく分けてくれよ?
さぁ、今夜はグルーブとシャレこもうぜ!
<対訳>多々野親父
●1970年代後半のディスコブームをリードしたエース・ウィンド・アンド・ファイア最後の全米Top10シングルがこの「レッツ・グルーブ」でしたね。1981年10月31日にTop40入りすると、36位→29位→23位→18位→11位→7位→5位→3位→3位→年末休→3位→3位→8位→8位→17位→27位というチャートアクションを見せただけでなくミリオンセラーにも輝き、彼らを代表する曲の一つに数えられる存在として今も多くの人に愛されている曲になっています。最高位3位を5週も続けていますが、この時期は1位がオリビア・ニュートン−ジョンの「フィジカル」、2位にフォリナーの「ガール・ライク・ユー」がいて、共にこの1−2体制を9週間も続けていた為に、最後までこの牙城を崩すことはできませんでした。
アース・ウィンド・アンド・ファイアは、フロントマンだったモーリス・ホワイトのイメージが具現化したグループでした。メンフィスで医者の息子として生まれた彼は、11歳の時にブッカー・T・ジョーンズと知り合って音楽に興味を持つと、ドラムを叩いてティーンエイジを過ごすことになります。その後一家はシカゴに移住しますが、そこでモーリスは稼業を継ぐことを望む父親の意に反して音楽の教師になるべくシカゴ音楽学院に入学します。1967年にはチェス・レコードでセッション・ミュージシャンとして働き始めると、その後ラムゼイ・ルイス・トリオに参加して音楽活動を本格化していきます。
更にこのグループでアメリカ中西部へとツアーに出たモーリスは、そこで神秘主義と出会います。そして”The Law Of Success”という本に書かれていた”成功の法則”を元に、自分の頭に浮かぶ未来の様子を音楽を通して表現したいという欲求に駆られたことから、3年でグループを離れ、その夢を叶えるべくチャンスを手にしようと一人でロサンゼルスに向います。そして、自分が結成したいグループとはこういうものだという絵を描いた上、占星術の勉強を開始します。そこで、彼の星座である射手座の構成要素には地(Erath)と気(Air)と火(Fire)しか存在しないことを知り(って、それが何なのかはよくわかりませんけど・・・)、これをベースに実現を目指すグループの名前を決めています(最終的に彼は、AirをWindに置き換えたわけですね)。
メンバー集めを終えたモーリスは、グループ全体での意思統一を果たすべく演奏前には必ず全員で瞑想を行うなど、精神世界の共有をメンバーに求めますが、彼らもまた菜食主義者ばかりという状況でストイックとも言えるモーリスの考えに異論を唱えることなく、彼に従った生活を送るようになります。こうして彼らは、グループ名を冠したアルバム「アール・ウィンド・アンド・ファイア」で1970年にメジャーデビューを飾ることになるわけです。その時、モーリスはグループ結成前に描いた絵を持ち出して、自分の夢が叶ったことを実感したそうですが、何と言うか、ものは考えようだよなぁという印象を受ける話ではありますよね。
1971年にはセカンドアルバム「愛の伝道師」をリリースしますが、売れ行きが芳しくない為にワーナーブラザースがレコーディング契約を破棄する決定を下します。モーリスはコロンビアレコードと契約を結び、ここでアルバム「地球最後の日」、「ヘッド・トゥ・ザ・スカイ」をリリースしつつ、かつてはジャズ色の濃かったサウンドをダンスミュージックへと切り替え、R&Bのアルバムチャートで上位にランクされるグループへと成長していきます。
1974年に「太陽の化身」がR&Bチャートで遂に1位を獲得、続いて1975年にはメンバー達が出演した映画「暗黒への挑戦」のサントラとして同名のアルバムをリリース、ここからシングルカットされた「シャイニング・スター」が1975年5月24日付のチャートで全米1位にランクされる大ヒットを記録、以降は皆さんご存知の通り、同じ年の「ゲッタウェイ」、1978年に映画「サーゲント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のサントラに収録されたビートルズのカバー「ガット・トゥ・ゲット・トゥ・イントゥ・マイ・ライフ」と「セプテンバー」、1979年には「ブギー・ワンダー・ランド」と「アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン」がTop10ヒットとなり、この時代を代表するアーティストの一つとしてその名を残す存在になったわけですね(しかも1977年にはコーラスを担当していたエモーションズが単体でアルバムをリリース、アースはそのバックアップを務めましたが、ここからシングルカットされた「ベスト・オブ・マイ・ラヴ」が全米1位になるという嬉しい誤算まで招いています)。
「レッツ・グルーブ」は、彼らにとって10枚目のオリジナルアルバムだった「天空の女神」からカットされた曲でした。ボコーダーを使った印章的なイントロで真新しさを演出しながら、切れ味鋭いブラスでアース節は健在であることを強くアピールした名曲で、1982年にディスコデビューを果たした私は、当初なかなかあの雰囲気に馴染めなかったのですが、この曲になると自然に身体が動いてしまったことを懐かしく思い出します。
また、同年代ということでインパクトが強かったのか、ドリカムが「決戦は金曜日」でパク・・・、じゃなかったインスパイアされたようなアレンジを施していましたっけ。
(レディ・マドンナ/ビートルズ)
Lady Madonna, children at your feet.
Wonder how you manage to make ends meet.
Who finds the money? When you pay the rent?
Did you think that money was heaven sent?
レディ・マドンナ、足元には小さな子供達がいて
わからないよ、どうやって生活をやりくりしてるのさ?
そのお金、誰が工面してくれてるの?月々の家賃を払う時のさ
天から降ってくるとでも思ってるんじゃないの?
Friday night arrives without a suitcase.
Sunday morning creep in like a nun.
Monday's child has learned to tie his bootlace.
See how they run.
金曜の夜には、スーツケースなしで現れるし
日曜の朝には、尼さんのようにこっそり忍び込んできて
月曜になると、子供は革靴の紐の結び方を覚えてて
ほら、走り回ってる子供達の様子を見てみなよ
Lady Madonna, baby at your breast.
Wonder how you manage to feed the rest.
レディ・マドンナ、赤ちゃんを胸に抱え
わからないよ、どうやって子供達を食べさせてるのかがさ
See how they run.
Lady Madonna, lying on the bed,
Listen to the music playing in your head.
ほら、走り回ってる子供達の様子を見てみなよ
レディ・マドンナ、ベッドに横たわり
頭の中で流れてる音楽に耳を傾けてる
Tuesday afternoon is never ending.
Wednesday morning papers didn't come.
Thursday night you stockings needed mending.
See how they run.
火曜の午後は一日が永遠に終わらないようで
水曜の朝には新聞がとめられちゃって
木曜の夜は、履いてるストッキングを繕わないといけなくなって
ほら、走り回ってる子供達の様子を見てみなよ
Lady Madonna, children at your feet.
Wonder how you manage to make ends meet
.レディ・マドンナ、足元には小さな子供達がいて
わからないよ、どうやって生活をやりくりしてるのさ?
<対訳>多々野親父
●1968年は、ビートルズにとって変革の年だった。その最も大きな要因となったのはインド旅行で、これはマハリシ・ヨギに師事して瞑想を学ぶ為に実施されたものだったが、元々は1967年中に計画されていたもののスケジュールに押されて延び延びとなり、結局年が明けた2月15日にジョンとジョージが、そして2月19日にポールとリンゴが出発している。帰国の予定が4月末となっていた為、空白となる期間を埋めるべくレコードをリリースする計画が持ち上がり、出発の直前となる2月3日から11日までの期間にレコーディング作業が行われた。「レディ・マドンナ」はこの時に録音された4曲のうちの一つで、ポールが作曲し、歌詞はジョンの協力を得て書かれている(彼の提案によって書き加えられたのが”See how they run"の部分だと言われている)。
「レディ・マドンナ」はブギウギ調のピアノをメインとした曲で、これまでのビートルズにはなかったタイプのものだったが、5月から製作が始まる「ホワイト・アルバム」の方向性を予感させるものだったという意味では、非常に重要な位置にある作品だと言える。ただし、イントロ部分や曲全体のイメージは1956年にリリースされたハンフリー・リトルトン・バンドの「バッド・ペニー・ブルース」に似ていると言われた上、ピアノの演奏スタイルについてもポール自身が1994年に「ファッツ・ドミノのテイストをモチーフにした」と語っているように、オリジナリティに欠けているという指摘を否定できないものとなっている。その一方で、バックコーラスをマルミット味のポテトチップスを口にほうばりながら歌うという、極めて実験的な試みもされており、それが「レディ・マドンナ」を印象づける重要な要素にもなっている。
録音は1968年2月3日に始まり、この日はポールが弾くピアノろリンゴのドラムプレイがテープに残されているが、この段階でリンゴはスティックではなくブラシを使っており、1950年代のジャズやブルースを意識した構成がイメージされていたことを物語っている。また、ジョンとジョージのギターは1台のアンプを共有する形で音が出されている。独特とも言えるあのベースラインとのユニゾンで聞かれる歪みの理由はここにあったわけである。
2月6日にはポールのボーカルとピアノ(この曲は、ピアノが重ね録りとなっている)、更にジョンとジョージによる”See how they run"のコーラスパート、手拍子、そして間奏部分のコーラスが録音されている。この時、ポールも含めた3人は口を手で覆いながらミュートを開け閉めするトランペットの音真似をしており、このアイディアはさすがだとうならされるところである。
この2日間のセッションで概ね作業は完了しているが、エンジニアのジェフ・エマリックはその時の様子を「とにかくピアノの音がうまく録れなくてね。最後には安っぽいマイクを持ち出してきて、コンプレッサーとリミッターを大量にかけて処理したんだよ」と振り返っている。本来音が割れるのはご法度なはずだが、それを敢えてやる為に四苦八苦したというのも、何だか面白い話である。ただ、ビートルズの面々の仕事は終わったものの、ポールが本物のブラスを使いたいという希望を出した為、その筋のミュージシャンに精通しているローリー・ゴールドに頼んで、4人のサックスプレイヤーが急遽集められることになる。
その中の一人でバリトン・サックス奏者のハリー・クラインは「夕方の6時半頃だったかなぁ、ローリーから電話があって、今夜空いてるか?って聞かれたんだ。私はその時もう風呂に入っていたんで、”ダメ!入浴中!”って返事をしたんだ。しかし”今夜スタジオに来てくれ!”って押し切られてね。更にテナー・サックス奏者を知らないか?って聞かれたから、ロニー・スコットに電話することを勧めたんだ。で、私がアビー・ロードに着いた時にはロニーの他に、バリトン・サックスのビル・ジャックマンとテナー・サックスのビル・ポーヴィーがもう到着していたよ」と話している。そして「私達が演奏するパートの楽譜はなかった。だからこちらで思いついたいくつかのリフを演奏して、その中でポールが気に入ったものを録音することになったんだけど・・・、なんとポールは僕らに101回もその作業をやらせたんだよ!」と付け加えている。ビル・ポーヴィーも「やることが決まっていたわけじゃなかった。ポールは僕らにいくつかコードを要求してきたんだけど、パート分けもどうなるかわからなかったんで、4人で”誰が何をやる?”って顔を見合わせたね」と話し、これにビル・ジャクマンが「ポールは、あの曲をピアノで弾き、紙と鉛筆を僕らに渡してこれに合うフレーズを適当に音符で書いていけって言ったんだ。前もって曲ができていたならともかく、リズムトラックをヘッドフォンで聞きながらの演奏だったから、僕ら4人は夜中までかかって録音するハメになった」と付け加えている。その時の慌ただしい様子は「何か食べるか?って聞かれたけど、瞑想の本とかが山積みになっている、言ってみればスタジオなのに倉庫みたいな感じになってたから、どうせ大したものなんかでやしないって思ってました。そしたらその2、3分後に(まともな食事である)パイとフライド・ポテトが出てきてびっくりしましたよ」というハリーのコメントからも伝わってくるものである。
こうして録音を終えた「レディ・マドンナ」はミックスダウンがなされ、1968年3月15日に「ジ・インナー・ライト」とのカップリングでリリースされている。発売後1週間でアメリカでは100万枚を突破、イギリスでも25万枚以上売れているが、残念なことにビルボードでは最高位4位という少々物足りない成績に終わっている(イギリスでは1位)。
このレコードは1968年にビートルズが製作した2枚のシングルのうちの1枚だったことと同時に、アメリカはキャピタル、イギリスではパーロフォンから発売された最後のシングルともなっている。次の「ヘイ・ジュード」から、ビートルズは自分達のレコードレーベル「アップル」でのリリースを開始するのだ。
(ユー・ガット・イット・オール/ジェッツ)
I, I was a game he would play
He brought the clouds to my day
Then like a ray of light
You came my way one night
Just one look and I knew
You would make everything clear
Make all the clouds disappear
Don't you know, don't you know
私・・・、私ねぇ、彼に遊ばれてたの
なんか、私の心を雲らせるばかりの人でね・・・
そしたら、そこに一筋の光が降り注いだの
あの夜、貴方が目の前に現れた時にね
一目見ただけで、私わかっちゃったんだ
きっとあなたは、私の鬱な気持ちを晴らしてくれる人なんだって
心にある雲を全部とっぱらってくれる人なんだって
そんなこと知らないよね?私の気持ち、わかってないよね?
You got it all over him
You got me over him
Honey it's true
There's just you
You must have been heaven sent
Hearing me call you went
Out on a limb
And you're all that he's not
Just look what I got
Cause you got it all
Over him
貴方は彼を忘れさせてくれた人
彼から私の心を奪っていったの
ねぇ、これって本心なのよ?
貴方しかいないの
きっと、神様が送ってくれた人に違いないわ
私の呼び声を
聞き入れてくれたのね
私の思いは全て貴方の物、彼ではないの
この気持ちを見て欲しい
だって、貴方が彼のことを全て忘れさせてくれたんだもの
No, don't let him worry you so
Once I met you I let go
Oh you can surely see
You're so much more to me
Just one look and I knew
You would make everything clear
Make all the clouds disappear
You're better than all the rest
Who do I love the best
Don't you know, don't you know
ううん、彼のことで心を悩ませないで
貴方に逢えば、私はそこへ行くしかないの
貴方ははっきりわかるはず
私が、もったいないくらい人だと思ってることを
一目見ただけで、私はわかっちゃったの
きっとあなたは、私の鬱な気持ちを晴らしてくれる人なんだって
心にある雲を全部とっぱらってくれる人なんだって
貴方が与えてくれる安らぎは、何よりも尊いの
ねぇ、私、誰を愛したら一番いいの?
そんなこと聞かれても知らないよね、わからないよね
You got it all over him
You got me over him
Honey it's true
There's just you
You must have been heaven sent
Hearing me call you went
Out on a limb
And you're all that he's not
Just look what I got
Cause you got it all
All over him
(You got it all over him, You got me over him)
Honey it's true there's just you
You must have been heaven sent
Hearing me call you went
Out on a limb
And you're all that he's not
Just look what I got
Cause you got it all
All over him
貴方は彼を忘れさせてくれた人
彼から私の心を奪っていったの
ねぇ、これって本心なのよ?
貴方しかいないの
きっと、神様が送ってくれた人に違いないわ
私の呼び声を
聞き入れてくれたのね
私の思いは全て貴方の物、彼ではないの
この気持ちを見て欲しい
だって、貴方が彼のことを全て忘れさせてくれたんだもの
(貴方が彼を忘れさせてくれた、彼への気持ちを奪ってくれた)
これって本心なの、貴方しかいない
きっと、神様が送ってくれた人に違いないわ
私の呼び声を
聞き入れてくれたのね
私の思いは全て貴方の物、彼ではないの
この気持ちを見て欲しい
だって、貴方が彼のことを
全て忘れさせてくれたんだもの
【対訳】多々野親父
●ジェッツは1985年にデビューしたトンガ系移民2世のファミリーグループで、8人で活動していた。確か彼らがメジャーになった後もご両親ががんばったようで、更に兄弟が生まれてジェッツ家族は甥だか姪だかまで入れて総勢21名になったというニュースを聞いたが、そのあたりの多産、大家族という感じが、更にトンガの血を強く感じさせてくれたようにも思うわけである。
1986年にファーストアルバム「ジェッツ」からカットされたディスコソングの「クラッシュ・オン・ユー」がいきなり3位にランクされ、彼らの存在はチャートファンにも広く知られるようになるのだが、今回取り上げたのは同じアルバムに収録されたバラードの「ユー・ガット・イット・オール」である。この曲は1987年1月17日にTop40入りし、32位→25位→20位→17位→11位→6位→5位→3位→9位→13位→22位→32位というチャートアクションを見せたヒット曲だった。
「ユー・ガット・イット・オール」は、三角関係をモチーフにした作品である。
1980年代に限らず、このような人間関係を歌った曲は珍しいものではなく、その代表格と言えば1981年の全米No.1ヒットであるリック・スプリングフィールドの「ジェシーズ・ガール」ということになる。だが、今にも爆発しそうなジェラシーをロックンロールに乗せて歌ったあの曲と「ユー・ガット・イット・オール」の主人公の心情は大きく違う。彼がいるから貴方への気持ちをはっきり表にはできないけれど、いつ気がついてくれてもいい、もう覚悟はできている、という日本の歌謡曲にも通じる微妙な心理描写がされているからである。
作詞作曲は、1979年から80年にかけて「エスケイプ」を全米1位にしたルパート・ホルムスが担当している。彼の歌詞の持ち味は、ニール・サイモンの短編小説を思わせるひねりの効いたストーリー展開で、それは恋人の浮気を察している男の気持ちを歌った「ヒム」にも盛り込まれているわけだが、そうしたテイストがこの「ユー・ガット・イット・オール」にも注入されているのである。
ジェッツの曲を作るように依頼された時、ルパートは主にミュージカル関連の仕事を請け負う生活に入っていたのだが、久しぶりにポップスの世界へ戻ってきたとは思えない冴えた技を見せている。小粋なアレンジと印象深いメロディで、しっかりと健在ぶりをアピールしている点はさすがだとも言える。また、それはそのままジェッツが単なるダンスグループではないことのアピールにもつながり、結果的にそれがセカンドアルバム「マジック」成功の呼び水にもなっていったのだ。
この曲のビデオは、リードボーカルを担当しているエリザベスがキャフェテリアのウェイトレスに扮し、お客としてやってくる「貴方」に一目ぼれしてしまうというベタな内容になっている。しかし、リスナーのイメージを膨らませることがビデオの役目だ、という意味では非常に優れた作品だと言え、エリザベスの見せるちょっと切ない表情が、曲が持つエモーショナルば面を更に際立たせる効果を生んでいる。素人の域に留まっている演技が、逆にリアリティを生んでいたことも面白い。
ジェッツは1989年に3枚目のアルバム「ビリーブ」をリリースするが見事にコケてしまい、1990年代をほとんど活動しないまま過ごしている。時代はヒップホップ全盛となり、ジェッツのようになオーソドックスなポップスグループが生き辛い状況になったとは言え、1980年代後半に大躍進を見せたジェッツが全くの不振に陥った事実には少々解せない部分はある。1998年には「ゼン・アンド・ナウ」をリリースしたが、その後、再び大きな動きは見せていないようである。
(フーリッシュ・ビート/デビー・ギブソン)
Top40初登場:1988年5月7日
Top40内推移: 36位→29位→22位→15位→7位→6位→3位→1位→2位→7位→13位→23位→31位→40位
1位獲得:1988年6月25日(1週)
カバーバージョン:none
Video@You Tube:Here
対訳:アリ
1987年までのアメリカン・ミュージック・シーンの特徴の一つとして、いわゆるアイドル歌手が出現していなかったことが挙げられるように思う。もちろん、ティーンエイジャーで構成されたニュー・エディション(後にホイットニー・ヒューストンの人生を台無しにすることになるボビー・ブラウンがいた)やリサリサといった存在はあったものの、そこには必ず企画モノっぽい雰囲気が漂っており、アイドル性を前面に押し出すような、言ってみれば1970年代のオリビア・ニュートン−ジョンのような若くてかわいく、更には清純さで勝負する女性歌手は見当たらなかったと言えるのだ。その理由は今となってはよくわからないのだが、少なくとも需要がなかったか、需要をを掘り起こすようなアプローチがされなかった、もしくはそうした位置に座らせても違和感のない人材そのものがいなかった、といったあたりだったように思われる。1980年代に入ってからしばらくはAORやカントリーが幅をきかせ、以降はイングリッシュ・インベージョンに晒されてアメリカのアーティストが骨抜きになり、それが終わればハートやスターシップといったベテラン勢が復活して、といった「主流の平均年齢が高い時代」が続いたことも一員だったのかもしれない。
そうした空気が変わったのは1987年になってからで、そのキーワードはズバリ「1970年代生まれ」だったわけである。1
デビー・ギブソンは1970年8月31日にニュー・ヨークのブルックリンで生まれている。5歳の頃には住んでいた地域にあった劇場に出演しつつ作曲を始め、8歳になるとメトロポリタン・オペラ・ハウスで児童合唱のメンバーとしてコーラスとして舞台にも立っているという、なかなかの早熟ぶりを見せていた子供だった。ピアノを習いながら10代を迎えた彼女は、合わせてレコーディング契約を結ぶべくその先を模索する日々を送るようになり、16歳になった1986年にアトランティック・レコードが彼女を獲得する決断を下すのである。
デビーは、各地のナイトクラブなどを回りながら武者修業し、デビュー・アルバムとなる「アウト・オブ・ザ・ブルー」の録音を開始する。この作業が4週間で終わり、ここからシングル「オンリー・イン・ドリームス」がマーケットへ放たれた瞬間に、彼女の人生は大きく変わるのである。
この曲はビルボードのHot100で最高位5位をマーク、アルバムも5週間1位を走る大ヒットを記録する。更に2枚目のシングル「シェイク・ユア・ラブ」が4位、タイトルチューンの「アウト・オブ・ザ・ブルー」も3位をマークし、1988年の春を迎える頃には、もうデビー・ギブソンの名前を知らない人はいないという状況となっていく。ほぼ同時期に1歳年下のティファニーもデビューし、「2人の世界」でビルボード史上初めての1970年代生まれによる全米1位を獲得した為、ファンの視線はデビー対ティファニーのティーンエイジャー対決に注がれることになったわけである。
「フーリッシュ・ビート」は、アルバムから4枚目のシングルとしてカットされた曲で、それまで軽快な8ビートの曲を続けてヒットさせていた彼女がバラードで勝負したことが話題にはなったものの、さすがに真新しさは失われていた為、それほど大きな動きは見せないのでは?と見られていた。ところが、蓋を開けてみればTop40入り7週目に自己最高の3位に到達し、翌週にはあっさりとリック・アストリーをかわしてトップに立ってしまったのである。これによってデビーは、一人で作曲し、プロデュースをこなし、更には歌った史上最年少の全米1位保持者となっている。また、この曲は、彼女が1987年の冬に行ったドリーム・ツアーで演奏した模様を録音したテイクが元になっており、時期的には「シェイク・ユア・ラヴ」がTop10内を快走していたタイミングと重なっていたことになる。
この曲によって、デビーのファンは既に2枚の全米1位を放っていたティファニーに、ようやく肩を並べることができたと当時は安堵の息をもらしていたのだが、個人的には果たしてそれでよかったのかという思いは捨て切れない。まずメロディが凡庸、・・・というか、どこかで聞いたことのあるフレーズをつなぎ合せた印象が強く、まだ17歳だった彼女がここまで思いつめた失恋の歌を歌っても、その世界を理解し、きちんと表現することができていたのか、甚だ怪しい感覚を抱いていたからなのである。これはティファニーの「思い出に抱かれて」にも言えるもので、そんなに背伸びをして大丈夫か?という危うさが漂っていたこともまた確かだったのだ。
そういった意味でも、この翌年に全米1位を獲得する「ロスト・イン・ユア・アイズ」はデビーのベストパフォーマンスであったし、「フーリッシュ・ビート」の影を薄く感じる理由となっているように思えてならない。
Foolish Beat
Debbie Gibson
There was a time when
Broken hearts and broken dreams
Were over.
There was a place where
All you could do was
Wish on a four leaf clover.
そんな時もあったのよ
恋に破れた心と打ち破れた夢が
終わった時もね
そんな場所もあったのよ
貴方がするだろうことを全て
四つ葉のクローバーに願いをかけるような場所がね
But now is a new time
There is a new place
Where dreams just can't come true.
It started the day when I left you (oh)
でも今、時は切り替わり
立つ場所も変わっている
そこは夢が叶うことのない場所で
それは貴方から離れたその日に始まったわ
I could never love again the way that I loved you (oh)
I could never cry again like I did when I left you
And when we said goodbye,
Oh the look in your eyes
Just left me beside myself without your heart
I could never love again now that we're apart
貴方を愛していたように、誰かを愛することなんて二度とないでしょう
貴方から離れた時のように泣くことも、決してないでしょう
貴方にさよならと告げた時のようなことはもう二度とね
貴方の瞳には
貴方の心を失って、ただ一人佇む私が映ってた
もう愛することなんて二度とないでしょう、今は離れ離れの2人なのだから
When I was sorry
It was too late to turn around
And tell you so.
There was no reason
(There was no reason)
Just a foolish beat of my heart.
残念だと思ったのは
振り返るにはもう遅すぎたということ
そしてそれを貴方に告げること
そこには理由なんて何もないの
(理由なんて何もない)
ただ、私の心臓が狂った鼓動をしているだけ
I could never love again the way that I loved you
I could never cry again like I did when I left you
And when we said goodbye
Oh the look in your eyes
Just left me beside myself without your heart
I could never love again now that we're apart
貴方を愛していたように、誰かを愛することなんて二度とないでしょう
貴方から離れた時のように泣くことも、決してないでしょう
貴方にさよならと告げた時のようなことはもう二度とね
貴方の瞳には
貴方の心を失って、ただ一人佇む私が映ってた
もう愛することなんて二度とないでしょう、今は離れ離れの2人なのだから
Can't you see I'm not fooling nobody
Don't you see the tears are falling down my face
Since you went away
Break my heart, you slipped away
Didn't know I was wrong
Never meant to hurt you now you're gone
私は誰もからかうような真似はしていないって、わかってる?
私の顔には涙が流れているのよ?それが見えない?
貴方が去ってから
私の心は傷つき、貴方はそれをそのままにして
私が間違っていたなんて、わからなかった
決して貴方を傷つけるつもりはなかったのに、今、貴方の姿はここにない
I could never love again the way that I loved you (oh)
I could never cry again like I did when I left you
And when we said goodbye
Oh the look in your eyes
Just left me beside myself without your heart
I could never love again now that we're apart
(Now that we're apart) (oh)
I could never love again now that we're apart.
貴方を愛していたように、誰かを愛することなんて二度とないでしょう
貴方から離れた時のように泣くことも、決してないでしょう
貴方にさよならと告げた時のようなことはもう二度とね
貴方の瞳には
貴方の心を失って、ただ一人佇む私が映っている
もう愛することなんて二度とないでしょう、今は離れ離れの2人なのだから
もう愛することなんて二度とないでしょう、今は離れ離れの2人なのだから
<対訳>多々野親父
(ロング・アンド・ワインディング・ロード/ビートルズ)
The long and winding road, that leads to your door,
Will never disappear, I've seen that road before,
It always leads me here, lead me to your door.
この長く曲がりくねった道が、君の心の扉へと僕を導いている
決して消えることはなく、いつも僕の目の前へと姿を現している
いつも僕をここへ導き、君の心の扉へとつないでいる
The wild and windy night, that the rain washed away,
Has left a pool of tears, crying for the day.
Why leave me standing here? Let me know the way.
天気は荒れ、風が吹きすさぶ夜も、雨が洗い流していった
流した涙が地に溜まっても、陽の訪れを求めて泣き叫ぶ
何故、僕をここに立たせたままにしておくの?進むべき道を教えて欲しい
Many times I've been alone, and many times I've cried.
Anyway you'll never know the many ways I've tried,
何度となく孤独な時が訪れ、何度となく僕は泣いた
どうあっても君がわかることはないけれど、何度も僕は努力したんだ
And still they lead me back, to the long winding road.
You left me standing here, a long, long time ago.
Don't leave me waiting here, lead me to you door!
それでもまだ、僕はここに引き戻される、この長く曲がりくねった道に
君は、僕を立たせたままここに置き去りにしたんだ、ずっと、ずっと昔にね
もう僕をこんなところで待たせたままにしないで、君の心の扉へと導いて欲しい
But still they lead me back, to the long and winding road.
You left me standing here, a long, long time ago.
Don't keep me waiting here, lead me to you door!
それでもまだ、僕はここに引き戻される、この長く曲がりくねった道に
君は、僕を立たせたままここに置き去りにしたんだ、ずっと、ずっと昔にね
もう僕をこんなところで待たせたままにしないで、君の心の扉へと導いて欲しい
<対訳>多々野親父
●ビートルズにとって最後の全米1位となったこの「ロング・アンド・ワインディング・ロード」は、録音された段階ではまだ結末が何も決まっていなかったにも関わらず、タイトルが彼らの歩んできた道のりを示す象徴的なフレーズとなっていたことで話題になった曲である。やはりこれは、神の配剤があったとしか言いようがないと思われる。
1970年6月13日から2週間に渡って王座に就いたこの曲は、ビートルズ20番目の全米1位で、これは2007年10月の段階においても単独のグループ、アーティストによる1位獲得の最多記録となっている。彼らが初めて全米チャートを制覇したのが1964年2月1日のことで、そこからたった6年2ヶ月の間にここまで数を伸ばした点は返す返すも凄まじいものである。年5枚の1位を獲得するだけで至難の業であるというのに、そのペースを6年も続けるような存在は、もう二度と現れることはないと言えよう。
「ロング・アンド・ワインディング・ロード」が最初に音となってテープに残されたのは1968年9月19日のことだった。この日はホワイトアルバムに収録された「ピッギーズ」のセッションをアビー・ロードで行った後、ポールがピアノに座って構想中だったいくつかの曲を試しに弾いている。そこには「レット・イット・ビー」や「サムシング」、更には「ロング・アンド・ワインディング・ロード」も含まれていた。こうしたポールの様子についてクリス・トーマスは「ちょうどあの頃、新曲候補が浮上したんだ。「レット・イット・ビー」なら、ポールは「ピッギーズ」のテイクとテイクの合間に弾いていたよ」と話している。
もちろん、「ロング・アンド・ワインディング・ロード」の本格的なレコーディングは年が変わった1969年1月26日からスタートしている。これはあの悪名高きゲット・バック・セッションが始まって5日目のことだった。続いて1月31日にも録音作業が行われているが、この日は映画「レット・イット・ビー」の撮影も同時に進められており、「ロング・アンド・ワインディング・ロード」を歌うポールの姿はここでフィルムに収められている。
しかし、・・・ご存知のようにこのセッションはスタジオでも混乱した上、レコードの形をなす段になっても更に混乱を招くという最悪の事態を生むことになる。いつ終わったのかわからないまま4人はスタたジオを離れた後、3月10日になって思い出したようにジョンとポールがアビー・ロードにやってきて、エンジニアのグリン・ジョンズに対し膨大なリハーサルテープを何とか形にするよう指示を出す。この作業が、当初リリースされるはずだったジョージ・マーティンがプロデューサーのアルバム「ゲット・バック」を作り上げるものだった。最終的には5月28日にマスターテープが出来上がるものの、あろうことかこの時はビートルズのメンバーでイギリス国内にいたのはジョージだけで、完成したテープの内容を本人達に確認させようにもできないという事態となっていた。その後、4人はこれを聞くことになるが、レコードにすることは反対だという結論が下されて、結局正式にリリースされることなくこのテープはお蔵入りとなるのである(その為、この「ゲット・バック」は海賊版として後にマーケット流出するという、また何とも悲しい結末を迎えるわけである)。
アルバム「ゲット・バック」は、8月にリリースされると一旦アナウンスされたものの、1969年6月になって特典の豪華ブックレットの製作が遅れているという理由から発売延期が発表され、その後は忘れられた存在となってしまう。何故なら、7月にアルバム「アビー・ロード」が世に放たれていたからである。しかし、あのダラダラとしまりのないセッションにより録音されたテープは、年が変わった1970年1月5日に再び陽の目を見ることになる。録音と並行して撮影されていた映画の公開をこれ以上遅らせるわけにはいかない、という事情が浮上したからである。その為、グリン・ジョンズはもう一度「ゲット・バック」の編集を開始するのだが、彼の努力はまたしても実ることはなかった。なんとジョンとジョージ、そしてリンゴの3人がフィル・スペクターにテープを渡し、プロデュースを依頼してしまったからである。ここでようやく、我々が今日耳にすることになるアルバム「レット・イット・ビー」の音が形作られていくわけである。フィルは3月23日に仕事を始め、4月2日にこれを終えている。従って事実上、この日がビートルズのレコード製作最後の日ということになる(もちろんこの後、ビートルズ・アンソロジー・プロジェクトが実行されることになるが、生きている4人が携わったという観点からすると、妥当ではないと思われる)。
フィルは「ゲット・バック」セッションのテープをリミックスするだけでなく、他の楽器やコーラスもオーバーダビングしているが、その最たるものが「ロング・アンド・ワインディング・ロード」に施されたストリングだった。そして、これを聴いて驚いたのがポールだったのだ。彼が思い描いていたのは、映画「レット・イット・ビー」の中で演奏されるピアノを主体としたシンプルなアレンジであり、それを勝手に変えられるのはかなわないとフィルに連絡を入れようとしたが捕まらず、結局マネージャーとして雇用を始めていたアラン・クレインを通じて要請をしたものの、それが反映されることはなかった。
最後の最後でプロデューサー職を追われる形になったジョージ・マーティンは「ジョンがあのアルバム(「ゲット・バック」名義のマスターのことですね)のリマスタリングをしていると聞いたのは、アルバム「アビー・ロード」がリリースされてから随分経った後だった。そして私も驚いた。元々、あのセッションで”(オーケストラのように)外部のミュージシャンを入れず、ボーカルをオーバー・ダビングせずに”作りたがっていたのは誰あろうジョンだったからね。(フィルが手を加えたことは)ポールも何も聞かされていなかったようで、本当に驚いていた。「レット・イット・ビー」や「ロング・アンド・ワインディング・ロード」のレコードリリース版を耳にした時のポールは、うろたえていたと表現していいほどだった」と語っている。
ビートルズが4人揃ってスタジオに顔を出したのは、1969年8月20日が最後となっていた。この日でさえ「アビー・ロード」のA面最後に収められた「アイ・ウォント・ユー」のリミックス作業が行われただけで、演奏は一切されていない。つまりこれ以降の段階でビートルズはもう実質的に解散状態へと突入していたと言えるのだ。だからこそ、作曲者であるポールの承諾の有無に関係なく、残された仕事をジョン達が急いで片付けようとした、という流れがみてとれるわけである。
しかし、そんな混乱の中であってもフィルの手によって形を変えられた2曲が全米1位に輝いている。そこがこのグループのすごさなのだと思うのだ。
(イングリッシュマン・イン・ニュー・ヨーク/スティング)
I don't drink coffee I take tea my dear
I like my toast done on one side
And you can hear it in my accent when I talk
I'm an Englishman in New York
コーヒーは飲まない、紅茶がいいね
トーストは片面だけを焼いたのが好きだ
僕が話すのを聞けば、アクセントでわかると思うんだ
僕がニュー・ヨークにいるイギリス人だってことがさ
See me walking down Fifth Avenue
A walking cane here at my side
I take it everywhere I walk
I'm an Englishman in New York
フィフス・アヴェニューを散歩してる僕を見かけると思う
そういう時、僕はステッキを携えてるんだ
歩いて行く時はどこへでもそれを持っていくんだよ
僕はニュー・ヨークにいるイギリス人だからね
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
僕はエイリアンさ、合法的異邦人ってヤツなんだ
僕はニュー・ヨークにいるイギリス人なんだよ
僕はエイリアンさ、合法的異邦人ってヤツなんだ
僕はニュー・ヨークにいるイギリス人なんだよ
If, "Manners maketh man" as someone said
Then he's the hero of the day
It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say
もし”礼節こそ人を人足らしめる”なんて諺の通りに振舞えば
その人は、今をときめくヒーローになるのさ
礼儀知らずを前にしてもそれを許し、更に笑みまで浮かべる
誰に何を言われようとも、自分を見失うことはない
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
僕はエイリアンさ、合法的異邦人ってヤツなんだ
僕はニュー・ヨークにいるイギリス人なんだよ
僕はエイリアンさ、合法的異邦人ってヤツなんだ
僕はニュー・ヨークにいるイギリス人なんだよ
Modesty, propriety can lead to notoriety
You could end up as the only one
Gentleness, sobriety are rare in this society
At night a candle's brighter than the sun
謙虚で、礼儀作法を心得ていれば、名が広く知られていくし
最後には、イギリス人の中のイギリス人になっているだろうね
紳士的で、沈着さを携える、なんてここの社会じゃまず見かけない話さ
夜にはろうそくの灯の方が、日の光よりも明るいもんだよ
Takes more than combat gear to make a man
Takes more than a license for a gun
Confront your enemies, avoid them when you can
A gentleman will walk but never run
武器をもっと揃えることが男らしさにつながるとか
銃の所持許可を更に増やすのがそうだとか?
敵を眼前に迎えても、無用な戦いなら避けるもんだよ
紳士たるもの、歩きはしても慌てて走ったりはしないのさ
If, "Manners maketh man" as someone said
Then he's the hero of the day
It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say
もし”礼節こそ人を人足らしめる”なんて諺の通りに振舞えば
その人は、今をときめくヒーローになるのさ
礼儀知らずを前にしてもそれを許し、更に笑みまで浮かべる
誰に何を言われようとも、自分を見失うことはない
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
I'm an alien I'm a legal alien
I'm an Englishman in New York
僕はエイリアンさ、合法的異邦人ってヤツなんだ
僕はニュー・ヨークにいるイギリス人なんだよ
僕はエイリアンさ、合法的異邦人ってヤツなんだ
僕はニュー・ヨークにいるイギリス人なんだよ
<対訳>多々野親父
●この曲は、1987年にリリースされたスティング2枚目のソロアルバム「ナッシング・ライク・ザ・サン」に収録され、彼を代表する曲として知られながらアメリカではシングルカットされず、1988年にイギリスでリリースされたリミックス版はチャートで51位までしか上昇しなかったという、非常に不思議なヒストリーを持っています。
ここで歌われる”Englishman”は、スティングの話によれば「古い友達のことを歌った」ものとのことですが、その人とはクエンティン・クリスプだとされています。彼は作家、俳優など様々な肩書きを持っていましたが、非常にエキセントリックな存在だったことで知られています。彼の足跡をこの記事の中で追うことは難しいものですが、特にホモセクシャルとしての発言は影響力が大きく、かのボーイ・ジョージも自分の子供時代とクリスプのそれには重なるものがあるとコメントしています。
さて、この「イングリッシュマン・イン・ニュー・ヨーク」は、母国を離れてアメリカで生活していても、自分の中にあるイギリス人としての気質を捨て去ることはできない、という我々日本人の大多数には実感し辛いシチュエーションを歌っています。バブル期を境に海外で暮らすケースも激増していきますが、1987年頃はまだそこまで国際化が進んでいなかった為に、同じ英語を話していても、馴染めないものは馴染めないし、譲れないものはどうしても譲れないという感覚を理解することは難しかったように思います。今ではアメリカで暮らしていたとか、国際結婚してロスにいる、なんて話を身近な人から聞いてもそれほど驚かなくなっているだけに、隔世の感があると言っていいのかもしれません。
しかし、こうしたカルチャー・ギャップは、コミュニティを形成できるほど同胞がいる、例えばプエルトリカンやメキシカンといった人達よりも、マイノリティとして生きる人には切実な部分であることも確かなようです。1992年にシャインヘッドがこの曲を「ジャマイカン・イン・ニュー・ヨーク」としてカバーしましたが、方向性は変われども、アメリカで暮らす上での違和感は人種や生まれた国に関係がないことを強く訴えかけてくるものでした(ただ、プロモーションビデオはパロディ色が濃いものでしたけれど)。
そして改めて思うのは、「Japanese In New York」という曲が成立するのか?という疑問です。実はこれ、自分達のアイデンティティが確立されていないと訴えられない世界なんですよね。
「コーヒーは飲まない、緑茶がいいね
パンは・・・、何でも食べる
アクセントを聞けばわかってくれるよね
僕は、ニューヨークにいる日本人なんだ
5番街を僕が散歩しているのを見かけると思うんだ
そういう時、・・・特に気にしているものはない
どこに行くにも、それは変わらない
僕は、ニューヨークにいる日本人なんだ」
・・・これじゃ、歌にならないですねぇ(苦笑)。
なんか、日本人の本質的なものって何だろう、なんて考えさせられてしまいます。
(アンコンディショナル・ラヴ/シンディ・ローパー)
I wanna fall into you
And I wanna be everything
You want me to
But I'm not sure I know how
I lose faith and I lose ground
Then I see you and remember
Unconditional love, love, love
Unconditional love
私、貴方に身も心も捧げたい
そして、貴方が私に望む
全てのものになりたいの
でも、私は自分に確信がもてないわ
信用を失うことや、足元を不安定にすることならわかるけど
そして貴方に逢えば、私はこの言葉を思い出す
無条件の愛、愛、愛
これって無条件の愛なんだって
It doesn't matter what I say
'Cause it always seems you're taking
Me the wrong way
But if you could read my mind you'd see
I fight myself all the time
When I see you I surrender
Unconditional love, love, love
Unconditional love, love
私が何を言おうが関係ないの
だって私の口からは
いつも貴方が誤解するような言葉しか出てこないように思えるから
でも、私の本心が見て取れるなら、わかってくれると思うの
私は、いつだってそんな自分と戦ってるんだって
貴方と会えば、私はただ従うだけ
だってこれは無条件の愛だから、
この愛は、貴方に無条件降伏してるってことだから
Standing on a wilder shore
I got my head up in the clouds, oh
I ain't got no sense of direction now
荒れ狂う海辺に立って
私は雲に向って頭を上げるだけ
私には、どこへ進んでいいのかがさっぱりわからないの
I wanna lie next to you
And I wanna do everything
You want me to
Sometimes I wish at the sky
I imagine what the clouds look like
When I see you I remember
Unconditional love, love, love
Unconditional love
When I see you I surrender
Unconditional love, love, love
Unconditional love. love, love
When I see you I surrender...
Unconditional love...
貴方の隣で眠りたい
そして、貴方が私に望む
全てのことをしてあげたいの
時々、私は空に向って願いをかける
そこに浮かぶ雲が何に似ているかを想像する
そして貴方に逢えば、私はこの言葉を思い出す
無条件の愛、愛、愛
これって無条件の愛なんだって
貴方と会えば、私はただ従うだけ
だってこれは無条件の愛だから、
この愛は、貴方に無条件降伏してるってことだから
貴方と会えば、私はただ従うだけ
だってこれは無条件の愛だから、
この愛は、貴方に無条件降伏してるってことだから
<対訳>多々野親父
●シンディにとって3枚目となるアルバム「ア・ナイト・トゥ・リメンバー」に収められていた曲ですよね。アメリカではシングルカットされていません。5枚もカットされていながらその候補にならなかったのは非常に不思議な話ですが、ファーストシングルだった「アイ・ドロウヴ・オール・ナイト」が最高位6位になっただけで、他の4枚がTop40入りを逃していることを思い返すと、何だかもったいないことをしたよなぁ、という感じがしますよね。
ただ、今回調べてみてビックリしたんですが、アルバムのリリースから2年も経った1991年に香港でプロモーションの為だけにシングルCDが作成され、配布されたとのことです。なんか、ファンの間ではレア・アイテムとなっているそうですが、これも何だか不思議な感じがします。
そう言えば、この曲は椎名林檎がカバーしてましたよね。
(トゥゲザー・フォーエヴァー/リック・アストリー)
Top40初登場:1988年4月30日
Top40内推移: 36位→25位→17位→14位→8位→5位→2位→1位→3位→10位→19位→30位
1位獲得:1988年6月18日(1週)
カバーバージョン:none
Video@You Tube:Here
対訳:アリ
今から思い返すと信じられないことなのだが、なんとアメリカでのリック・アストりーはデビューから2曲連続で1位を獲得するという大ファイン・プレイを演じている。
前作の「ギブ・ユー・アップ」同様、この「トゥゲザー・フォーエヴァー」もマイク・ストック、マット・エイキン、ピート・ウォーターマンのトリオによって作られ、プロデュースされたものだった。彼らの中で最初にリック・アストリーを知ったのはピーターだった。ただそれは、クラブで歌っているリックを見たことがあるというだけの話で、その場で才能があると直感が走ることはなかった。しかし、その後FBIがショウケースを行う段位になってピートがリックのボーカルに注目し、契約の目処がつくまで彼の所属していたPWLというレーベルが所有していたスタジオを紹介し、そこで手元として働くよう段取りをとっている。そして、マイクとマットがリックと遭遇したのはそのスタジオだった。
その時の様子をマイクは「僕らがそのスタジオにいた時、彼が上から降りてきたんだ。その時、ああ、そう言えばリック・アストリーって歌手がここでテープ・オペレーターをやっているって聞いたなぁ、って思った。だから、印象はずばり”スタジオのお茶汲み係”だったよ。それが最初」と話している。
しかしマイクは「ほとんどの人がそうだったように、最初にリックの声を聴いた時はビックリしたよ。マットも驚いてた。ただ、正直なところそれが僕の好きな声なのかどうかはわからなかった。というのも、リックのデモテープって音がひどかったんだ。まぁ、それでも彼のボーカルのすごさだけは伝わってきたってことなんだけどね」とも話している。
こうしてリックは、メジャーデビューを果たすべく、バナナラマの「ヴィ−ナス」やデッド・オア・アライブの「ユー・スピン・ミー・ラウンド」、メル&キムの「ショウイング・アウト」、サマンサ・フォックスの「タッチ・ミー」といったヒット曲を生んだ超売れっ子トリオの下で録音を開始することになる。しかしマイクはその時の様子を「リックはスタジオで働いていながら、肝心の録音する作業を経験したことがなかった。ただ、ライブの数だけはこなしているから、自分の力の全てを引き出そうと必死になっちゃたんだよ。だけど僕らは、リックの声のいいところだけが引き立つようにしたかった。だから、歌い方を1から教えていくことにしたんだよ。リックはそれに慣れるまで時間がかかったね」と簡単ではなかったことを明かしている。
完成した曲は「ギブ・ユー・アップ」で、1987年にイギリスでリリースされると1位を5週間も続ける大ヒットとなり、1988年にはアメリカでもトップに立つ快進撃を見せている。しかし、アメリカでの動きは半年以上遅れていた為、その間にイギリスでは「ホエネバー・ユー・ニード・サムバンディ」と「恋に落ちた時」という2枚のシングルがカットされている。
「トゥゲザー・フォーエヴァー」は、「ギブ・ユー・アップ」のチャート上の動きを把握した上で製作された曲だった。マイクは「アルバムに入れ様としていた曲の録音が終わって、その「成果」をもう一度聴き直してみたんだ。そしてこんなことを考えたんだ、もう皆は「ギブ・ユー・アップ」のシングルを買っている。アルバムまで買わせようとするなら、あの曲に匹敵する曲が必要だが、それがあるだろうか?ってね」と話し、加えて「答えはNOだった。だから新しい曲が必要だと思ったんだ。リックの魅力を知ってもらう為には、まだ何かが足りないってね。それで「トゥゲザー・フォーエヴァー」を作ったんだよ」と続けている。
この言葉の通り、「トゥゲザー・フォーエヴァー」は「ギブ・ユー・アップ」のコンセプトをそのまま引き継ぐ形で製作されている。新人がデビュー曲でいきなりヒットを手にしてしまうと、2曲目は非常に製作が難しくなるもので、大抵は方向性の選択を見誤って失敗してしまうわけだが、リックの場合は似たような雰囲気の曲だったことがプラスに左右したことになる。「トゥゲザー・フォー・エヴァー」は「ギブ・ユー・アップ」が35位から圏外へダウンした1988年4月30日にTop40入りを果たし、その8週後の6月18日に1位の座を得ている。
リックの成功についてマットは「彼はなかなか自分の殻を破ることができないでいたんだ。僕らにはお茶を出すようになったけど、内気な為に他の人には出せないまま、みたいなところがあった。けど、デビューを目指して一緒にやっていくうちに、僕らが手がけていたスター達にもお茶を入れられるようになった。彼に必要だったのは、そういう「外に出ること」だったのさ。たかがお茶汲みだけど、リックには誰にも物怖じせずにそれができるってことが重要だった。殻を破れたことがよかったんだ」と振り返っている。そういうものなんですねぇ。
Together Forever
Rick Astley
If there's anything you need
All you have to do is say
You know you satisfy everything in me
We shouldn't waste a single day
もし、何かが必要なら
ただそれを口にしてくれればいいんだ
君はわかってる、僕に足りないと感じるものなんてないってことを
僕らはもう、1日だって無駄にすべきじゃないのさ
So don't stop me falling
It's destiny calling
A power I just can't deny
It's never changing
Can't you hear me I'm saying
I want you for the rest of my life
恋に落ちていく僕を止めないで欲しいんだ
運命に導かれているんだから
それって僕には抗えない力なんだよ
そして、この気持ちは決して変わりはしない
僕の言ってること、聞えてる?
死ぬまで君と一緒にいたいんだよ
Together forever and never to part
Together forever we two
And don’t you know
I would move heaven and earth
To be together forever with you
ずっと一緒さ、別れることなんてありえない
ずっと一緒なんだ、僕ら2人は
そして君はわかってないのさ
僕は天でも地でも動かすだろうってことをね
ずっと君と2人でいられるならさ
If they ever get you down
There's always something I can do
Because I wouldn't ever wanna see you frown
I'll always do what's best for you
もし君を落ち込ませる誰かがいるなら
いつだって僕は立ち上がるよ
だって、不機嫌な顔をしてる君をみたくはないからね
いつだって、僕は君の為にベストを尽くすのさ
There ain't no mistaken
It's true love we're making
Something to last for all time
It's never changing
Can't you hear me I'm saying
I want you for the rest of my life
間違いなんてありえない
僕らが育んでいるのは、真実の愛さ
それは決して変わることはないんだ
僕の言ってること、聞えてる?
死ぬまで君と一緒にいたいんだよ
Together forever and never to part
Together forever we two
And don’t you know
I would move heaven and earth
To be together forever with you
ずっと一緒さ、別れることなんてありえない
ずっと一緒なんだ、僕ら2人は
そして君はわかってないのさ
僕は天でも地でも動かすだろうってことをね
ずっと君と2人でいられるならさ
So don't stop me falling
It's destiny calling
A power I just can't deny
It's never changing
Can't you hear me I'm saying
I want you for the rest of my life
恋に落ちていく僕を止めないで欲しいんだ
運命に導かれているんだから
それって僕には抗えない力なんだよ
そして、この気持ちは決して変わりはしない
僕の言ってること、聞えてる?
死ぬまで君と一緒にいたいんだよ
Together forever and never to part
Together forever we two
And don’t you know
I would move heaven and earth
To be together forever with you
ずっと一緒さ、別れることなんてありえない
ずっと一緒なんだ、僕ら2人は
そして君はわかってないのさ
僕は天でも地でも動かすだろうってことをね
ずっと君と2人でいられるならさ
Together forever and never to part
Together forever we two
And don’t you know
I would move heaven and earth
To be together forever with you
ずっと一緒さ、別れることなんてありえない
ずっと一緒なんだ、僕ら2人は
そして君はわかってないのさ
僕は天でも地でも動かすだろうってことをね
ずっと君と2人でいられるならさ
<対訳>多々野親父
(ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー/ボビー・マクファーリン)
Here's a little song I wrote
You might want to sing it note for note
Don't worry, be happy
僕が作った、大したことない曲があるんだ
それを書いたノートを君が見たら、合わせて歌いたくなるんじゃないかな
心配しないで、ハッピーな気分でいようよ、ってね
In every life we have some trouble
But when you worry you make it double
Don't worry, be happy
Don't worry, be happy now
Don't worry, be happy
Don't worry, be happy
どんな人生であろうと、僕らは問題を抱えて生きてるもんだよ
でもさ、心配すると、それを倍にしちゃうんだな
だからさ、心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
心配しないで、ハッピーな気分でいようよ、ね?
心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
Ain't got no place to lay your head
Somebody came and took your bed
Don't worry, be happy
頭を横たえる場所がないって時も
誰かがやってきて、君のベッドを用意してくれたでしょ
だから心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
The landlord say your rent is late
He may have to litigate
Don't worry, be happy
Look at me -- I'm happy
Don't worry, be happy
Here I give you my phone number
When you worry call me, I make you happy
Don't worry, be happy
大家がさ、家賃を滞納してるからって
君を訴えなきゃならないかもしれない
でも心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
僕を見てよ、ハッピーだろ?
心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
ほら、僕の電話番号を教えてあげるから
心配になったら連絡してよ、ハッピーな気分にしてあげるから
心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
Ain't got no cash, ain't got no style
Ain't got no gal to make you smile
Don't worry, be happy
お金がないとか、見栄えが悪いとか
君をニコニコさせちゃう彼女がいないとか・・・
とにかく心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
'Cause when you worry your face will frown
And that will bring everybody down
Don't worry, be happy
Don't worry, don't worry, don't do it
Be happy, put a smile on your face
Don't bring everybody down
Don't worry, it will soon pass, whatever it is
Don't worry, be happy
I'm not worried, I'm happy...
だって、君がしかめっ面してるとさ
皆の気分をがっかりさせちゃうから
だから心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
心配しないで、心配しちゃダメさ、そんなこと気にしないで
ハッピーな気分でいようよ、顔に微笑みを浮かべようよ
皆をがっかりした気分にさせちゃダメさ
心配しないで、すぐに通り過ぎるものだから、困った事が何であろうとね
だから心配しないで、ハッピーな気分でいようよ
僕は何も心配してないよ、だからハッピーなのさ
<対訳>多々野親父
●人間楽器隊ボビー・マクファーリンが放ったビルボード史に残る大ヒット曲、それが「ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー」でした。映画「カクテル」のサントラに収められたこの曲は1988年8月13日にTop40入りすると、40位→35位→25位→15位→9位→4位→1位→1位→3位→6位→17位→24位→29位というチャートアクションを描いて、アカペラとしては初めての全米1位を10月1日から2週間に渡って獲得しています。この時期はハードロック勢が強く、ガンズ&ローゼスの「スィート・チャイルド・オブ・マイン」とデフ・レパードの「ラブ・バイツ」が前後で1位になっているような状況でしたが、それだけに余計のどかとも言える「ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー」のテイストは異彩を放っていたものです。
ボビー・マクファーリンは1950年3月11日にニュー・ヨークで生まれています。両親は共にオペラ・シンガーで、父親はメトロポリタン・オペラ劇場の舞台に立った最初の黒人歌手であり、1959年に製作された映画「ポーギー・アンド・ベス」のサントラにも参加するなどメジャーどころで活躍した人でしたが、一家はボビーが生まれた後にロサンゼルスへ移住し、母親はその後フラートンカレッジで声楽を教える先生として教壇に立っています。
環境も血統も音楽畑というボビーが、その理論の勉強とピアノの練習を始めたのは6歳の時でした。そして高校生になる頃には、ボビー・マック・ジャズ・クインテットを結成して演奏活動に入っています。しかしボビーは、教会で聖職者になりたいと真剣に考えるようになり、ジャズプレイヤーとしての人生に別れを告げようとします。そこに登場したのが、コメディ俳優のビル・コスビーでした。彼はソルト・レイク・シティのヒトルンホテルでピアノを弾いていたボビーに惚れ込み、1980年に開催されたプレイボーイ・ジャズ・フェスティバルにソロで出演する場を用意します。これがボビーをメジャーにするきっかけとなりました。
ボビーと言えば、ギター、ベース、ドラムなどを自分の身体と声を使って表現する人というイメージが極めて強いわけですが、彼がボーカリストとしての才能を認められたのは1981年のクール・ジャズ・フェステバルで大賞を受賞した時で、その特異なプレイはジャズだけでなく音楽ファンに広く知られるようになっていきます。
1982年に自分の名前をタイトルにしたアルバムをリリースすると、更に知名度は高まっただけでなく、クリームの「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」を楽器演奏なしでカバーしたバージョンが大きな話題を呼ぶことになります。そして1988年になると、ボビーは1960年代の曲をカバーしたアルバム「シンプル・プレジャー」をリリースし、ここに「ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー」を収録、合わせて「カクテル」のサントラにもこの曲が取り上げられたのでした。
「心配しないで、ハッピーな気分でいよう」というセンテンスは、1969年に死去したインディアンの宗教家(というか、祈祷師?)のマハー・ババが、講演などで配っていたカードに記していたものでした。彼はにっこり笑った自分の顔写真の下にこの言葉を掲げ、自らが目指すものをわかりやすく表現していたわけです。それがボビーの持つ飄々とした雰囲気によくマッチしていたことも、ヒットした理由の一つに挙げられるかもしれません。また、当時現役の副大統領から共和党の候補となって大統領選を戦っていたジョージ・ブッシュ(今のブッシュ大統領の父親。湾岸戦争を始めた人です)が、選挙のキャンペーンソングとして使っていたことでも知られています。
また、Touchstone/Disney社の音楽部門副社長だったクリス・モンタンは、この曲の思い出として「当時、テキサスで洪水があってね、そのニュースをテレビで見ていたんだ。水に浸かってしまった家の様子などが報じられていたんだが、その屋根に大きな大きなプラカードが掲げられていたんだよ。そこに書かれていたのが”Don't worry, Be happy”だったんだ。この言葉はテキサスでよく使われていたものだったけれど、あの一件で全国区になったんだ。そしてボビーの曲が、ご存知のように、大ヒットしたんだよ」というエピソードを披露しています。
この曲の後、ボビーが自殺を図ったという噂が一時流れることになります。何度も何度もまことしやかに囁かれた為、ボビーが既に亡くなっていると思っている人もたくさんいるわけですが、彼は元気に生活を送っています。こういうデマの中でも、それを声高に否定しないあたりが実に彼らしいなと思いますね。
(ヘイ・ジュード/ビートルズ)
Hey, Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
なぁ、ジュード、そんなに悪く考えるなよ
悲しい歌だろうが歌ってさ、気分をいい方に変えるんだ
覚えておけよ、彼女を君の心に受け入れるんだ
そうすれば、物事を上向きに変えられるのさ
Hey, Jude, don't be afraid
You were made to go out and get her
The minute you let her under your skin
Then you begin to make it better.
なぁ、ジュード、不安になることなんてないんだ
お前は、彼女を捕まえにいくことになっているんだから
彼女を受け入れた瞬間から
お前は、物事ををいい方に切り替えていけるのさ
And any time you feel the pain, hey, Jude, refrain
Don't carry the world upon your shoulders
Well don't you know that its a fool who plays it cool
By making his world a little colder
そして、胸に痛みを感じる時はいつも、ジュード、この言葉を繰り返すんだ
この世の全てをその肩に背負う必要なんてないってことを
お前はわからないの?自分の心から少し情熱を取り去って
それがクールに振舞っていると思うヤツは、バカなんだってことを
Hey, Jude! Don't let her down
You have found her, now go and get her
Remember, to let her into your heart
Then you can start to make it better.
なぁ、ジュード、彼女をがっかりさせるなよ
もうお前は出会ってるんだ、後は彼女のもとへ行き、自分のものにするだけなんだよ
覚えておけよ、彼女を君の心に受け入れるんだ
そうすれば、物事を上向きに変えられるのさ
So let it out and let it in, hey, Jude, begin
You're waiting for someone to perform with
And don't you know that it's just you, hey, Jude,
You'll do, the movement you need is on your shoulder
だから、思いのたけを打ち明けて、彼女のことを受け入れるのさ、ジュード、始めるんだ
お前は、一緒に歩んでくれる人を待っているのさ
わからないのか?行動を起こすのはお前なんだよ、ジュード
お前がやるのさ、お前の求めるきっかけは、もうその肩に乗っているんだから
Hey, Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her into your heart
Then you can start to make it better
なぁ、ジュード、そんなに悪く考えるなよ
悲しい歌だろうが歌ってさ、気分をいい方に変えるんだ
覚えておけよ、彼女を君の心に受け入れるんだ
そうすれば、物事を上向きに変えられるのさ
<対訳>多々野親父
●ビルボードのHot100に、いきなり10位で飛び込んできた後、1968年9月28日から実に9週間も1位を続け、この年の年間チャートでも1位を獲得した、ビートルズにとって最大のヒット曲である。
「ヘイ・ジュード」には、新しい挑戦という言葉がよく似合う。それは、ビートルズが立ち上げた自分達のレーベル”アップル”から発売した最初のシングルだったことがまず一つ。そしてある概念を打ち破る活気的な試みがされていることがそれに続く。この曲の演奏時間は7分11秒で、これはビートルズのシングル史上最長のものであると同時に、1960年代における「シングルレコードの演奏時間は3分程度におさめる」という常識を覆すものだったのである。
「ヘイ・ジュード」は、当初1968年7月26日に録音を開始する予定になっていたが、この曲を作ったポールがジョンと共に始めた煮詰め作業が長引き、結局3日遅れの7月29日にスタジオでのプレイが始まっている。この日は6テイクが録音されているがリハーサル色が濃かったようで、翌30日にも7〜25テイクがテープに収められたものの、まだ半分リハーサルという形になっていた。
7月31日にビートルズの面々はアビー・ロード・スタジオを離れてトライデント・スタジオに向かい、ここで彼らは初めて8トラックのレコーディングシステムを使用することになる。そう「ヘイ・ジュード」はここでもまた、新しい試みがなされていたのだ。
そして迎えた8月1日、スタジオにはオーケストラのメンバーが集められ、「ヘイ・ジュード」の肝とも言えるエンディングのリフレインが録音されている。この中の一人としてフルートを吹いたのはビル・ジャックマンで、彼は「レディ・マドンナ」で印象的なテナー・サックスを吹いた男だった。そして、後にサディスティック・ミカ・バンドなどを手がけるクリス・トーマスが、プロデューサーであるジョージ・マーティンのアシスタントとして参加している。クリスはこの時の様子を「トライデント・スタジオって、細長い形をしていたんだ。だからオーケストラのメンバーを並べるのは、前の人の頭を小突かないように、トロンボーンを一番前にして、縦に並んでもらったんだ」と振り返っている。そしてこの日は、演奏だけでなくコーラス部分も収録されているのだが、あの「ナー、ナーナーナナナナー」と手拍子でもオーケストラの面々が参加している。もちろん、彼らはそうしたものが本業ではないので戸惑う者もいたようなのだが、それによってギャラが2倍になるという話を聞くと、ほとんどのメンバーが首を縦に振ったそうである。ただ、クリスの話によると、たった一人だけそれを拒否して帰ってしまった人がいたそうで、彼は「ポール・マッカートニーの忌々しい曲になんか声を入れたくないし、手拍子もゴメンだ!」と捨てゼリフを残していったとのこと。当時のクラシック畑の人がビートルズにどういう視線を向けていたかがよくわかる一方、21世紀になっても名曲として語り継がれる「ヘイ・ジュード」に乗らなかったことを、もったいないと後で思ったりしなかったの?という意地の悪い質問が頭をよぎったりする。
こうしてできあがった「ヘイ・ジュード」は、8月7日と8日に場所をアビー・ロード・スタジオに移してミックスダウンが行われている。だが、ここで困った事態が起きることになる。なんと、トライデントでは素晴らしいサウンドが再生可能だったテープが、アビー・ロードでは高音域が全く聞こえなくなっていたのだ。
この時、テープ操作を担当したのはエンジニアのケン・スコットだったが、最初に異変に気がついた時はジョージ・マーティンもビートルズのメンバーもケンが何かやったのでは?という疑念を抱いたそうで、スタジオの中で孤立したケンは仕事がなくなることを頭に思い浮かべながらビクビクしつつ過ごしている。
結局このトラブルは二つのスタジオの間でセッティングが異なっていたことが原因だと判明する。そこでケンは、トライデントで聞いた音が復活するよう必死の作業を行い、何とか元の姿に近い状態までもっていくことに成功するのである。
「ヘイ・ジュード」は、「ホワイト・アルバム」の製作と重なる時期に作られているものの、最初からシングル用として扱われていた曲である。その為に、ジョンとポールが録音開始のタイミングを遅らせてでもじっくりと時間をかけて作っていたとも言えるのだが、これを聞いたリスナーの興味は「Judeって誰のこと?」というポイントに集中していく。
この疑問についてポールは1973年に「たまたまドライブをしていたら、(ジョンの最初の奥さんだった)シンシアに逢ったんだ。彼女は、ジョンと離婚したばかりで、まだその傷が癒えないという感じだった。彼女の息子のジュリアン(後に「ヴァロッテ」でデビューを飾ることになるジュリアン・レノンのこと)とは、ジョンのこととは関係なしに友達でね、2人を僕の車に乗せて走り始めたんだよ。そのうち僕は「♪ヘイ・ジュール」って歌いだしたんだ(子供なので、あやすために歌っていた、というところですかね)。で、この曲を仕上げようと思い始めた時、どうせならジュードがいいなって感じたんだ。別にルークとかマックスとかでもよかったんだけど、やっぱりジュードが一番いいな、って思ったんだよ」と答えている。
一方、ジョンは「ポールはジュリアンの為の曲だって言ってたよ。彼は、僕がシンシアと別れたことを知っていたし、ジュリアンにとっても親戚の叔父さんみたいな存在だったからね」とそれを裏付けるコメントを1980年に残している。だが続けて「でもあの曲は、聞くたびにいつも自分に対して歌っているんじゃないかって思えたよ。ヨーコと2人で勝手にどこへでも行ってしまえ!って言いながら、実は僕を失いたくなかったんじゃないのかな、って」と付け加えている。彼の死が間近に迫っていたタイミングで放たれたこの言葉からは、何と無くポールとのわだかまりが過去よりも希薄になっていたことを感じさせられる。もしかしたら、1980年代のどこかでビートルズが再結成に向かうような展開になっていたのかもしれない。もちろんそれは私の単なる妄想ではあるのだが、それでもやはり、何かを期待せずにはいられない発言ではないかと思うのだ。
面白いもので、ジョンは「ヘイ・ジュード」がリリースされた直後のインタビューで「ポールが初めてこの曲を歌ってくれた時、とても感じ入るものがあったんだ。だから”これは僕のことを歌った曲だ!”って言ったんだ。そしたらポールは”違うよ。ジュードは僕のことだ”と答えた」とも話している。この2つのコメントの間にはたった12年の歳月しか流れていないのだが、何にしても真相を知る人間は今やポールしかいないことに変わりがない。
なお「ヘイ・ジュード」のB面には、非常にヘヴィーなサウンドでハードロックファンから今も支持を集める「レボリューション」が収められている。こちらも最高位12位をマークするスマッシュヒットとなっている。
(ハートブレイカー/ディオンヌ・ワーウィック)
I got to say it and it's hard for me
You got me cryin' like I thought I would never be
Love is believin' but you let me down
How can I love you when you ain't around
And I .....
言わなきゃいけないのね、それはとっても辛いことだけど
貴方は私を泣かせたわ、私がそこまでひどくはならないだろうって思ってたほどに
愛って信じることでしょ?なのに貴方は私を落ち込ませて
貴方が周りにいないのに、どうやって愛したらいいの?
そして私は・・・
Get to the morning and you never call
Love should be everything or not at all
And it don't matter what ever you do
I made a life out of lovin' you
朝を迎える、けれど貴方からの電話は決してこない
愛は自分の世界全てか、さもなければ何もないかのどちらかじゃない
今まで貴方が何をしてようが関係ないの
私は、貴方への愛で暮らしていたのだから
Only to find any dream that I follow is dying
I'm cryin' in the rain
I could be searchin' my world for a love everlasting
Feeling no pain, when will we meet again
わかったのはただ一つ、私が抱いていた夢達が今死にかかっていること
私は、雨の中で泣いてるの
自分の日々を、永遠の愛を探す為に費やせたら(どんなにいいでしょう)
痛みも感じず、私達が再びめぐり合えるのはいつのこと?
Why do you have to be a heartbreaker
Is it a lesson that I never knew
Gotta get out of the spell that I'm under
My love for you
どうして、貴方は私の心をズタズタにしなきゃいけないの?
これって、私が知らなかった”愛の試練”なの?
私は、今まで過ごしていた時から離れなければならないの?
貴方に愛を捧げていた日々から、出ていかなければならないの?
Why do you have to be a heartbreaker
When I was bein' what you want me to be
Suddenly everything I ever wanted has passed me by
どうして、貴方は私の心をズタズタにしなきゃいけないの?
貴方の望む女でいた時もあったのに
突然、私がそれまで望んでいた全てのものが、私を通り過ぎていく
This world may end
Not you and I
この世が終わることもあるでしょう
だけど私と貴方に終わりは訪れないの
My love is stronger than the universe
My soul is cryin' for you
And that can not be reversed
You made the rules and you could not see
You made a life out of hurtin' me
私の愛は、宇宙よりも強いものよ
そして私の魂は、貴方を求めて泣き叫んでいる
それでも貴方の気持ちは翻せない
貴方が2人のことを決めたけれど、貴方はわからなかったんでしょう
それが、私を傷つけながら暮らしていたことだとはね
Out of my mind
I am held by the power of you love
Tell me when do we try
Or should we say goodbye
心から思う
私は、貴方の力と愛で支えられていたということを
教えて、やり直すのはいつ?
それとも、さよならを告げなければならないの?
Why do you have to be a heartbreaker
When I was bein' what you want me to be
Suddenly everything I ever wanted has passed me by
どうして、貴方は私の心をズタズタにしなきゃいけないの?
貴方の望む女でいた時もあったのに
突然、私がそれまで望んでいた全てのものが、私を通り過ぎていく
Oh, why do you have to be a heartbreaker
Is it a lesson that I never knew
Suddenly everything I ever wanted
My love for you, ooh....
どうして、貴方は私の心をズタズタにしなきゃいけないの?
これって、私が知らなかった”愛の試練”なの?
私は、今まで過ごしていた時から離れなければならないの?
貴方に愛を捧げていた日々から、出ていかなければならないの?
Why do you have to be a heartbreaker
When I was bein' what you want me to be
Suddenly everything I ever wanted has passed me by
どうして、貴方は私の心をズタズタにしなきゃいけないの?
貴方の望む女でいた時もあったのに
突然、私がそれまで望んでいた全てのものが、私を通り過ぎていく
<対訳>多々野親父
●コラボレーションの極み、という印象を非常に強く感じたヒット曲でした。ディオン・ワーウィックの「ハートブレイカー」を作曲したのはビージーズの3人、即ちバリー、モーリス、ロビンの3兄弟で、プロデュースとバックコーラスも彼らが担当しています。バリーは1980年にバーブラ・ストライザンドと組んでアルバム「ギルティ」を製作し、ここから「ウーマン・イン・ラヴ」という全米1位ヒットを生み成功していますが、その後に着手したディオンヌのアルバム「ハートブレイカー」でもクオリティの高い仕事をこなした、というわけですね。
この曲は1982年11月6日にTop40入りを果たし、38位→34位→28位→19位→17位→15位→14位→12位→年末休→11位→10位→10位→26位というチャートアクションを描いていますが、ソロとしてはこの最高位10位の曲が彼女にとって1980年代最高のヒットとなっています(もちろん、この4年後の1986年にディオンヌ&フレンズ名義で「愛のハーモニー」という大ヒット曲を生み出すわけですが)。また、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは堂々の1位を獲得しており、ディオンヌの新しい魅力を知らしめた作品という位置付けにもなっています。
それにしても、この曲のメロディ、そしてアレンジはポップスとして高い完成度を誇っており、当時のバリー・ギブがノリにノッていたことが思い知らされます。日本でもヒットした曲ですが、このわかりやすさは歌謡曲に慣れた人の耳にも違和感なく理解できるもので、売れたのも当然だったと言えますよね。文化放送の「ミスDJリクエストパレード」でも頻繁にオンエアされていたことを懐かしく思い出します。
(涙の分かれ道/ディオンヌ・ワーウィック)
You looked inside my fantasies and made each one come true,
something no one else had ever found a way to do.
I've kept the mem'ries one by one, since you took me in
and I know I'll never love this way again.
貴方は、私が内に夢で描いていたものを見つけては、それを一つずつ叶えてくれた
誰も見つけられなかったやり方でいくつも
私は、そんな思い出を一つ一つ忘れないできたわ、貴方が私を受け入れてくれてからずっと
そしてわかっているの、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
I know I'll never love this way again,
so I keep holdin' on before the good is gone.
I know I'll never love this way again,
hold on, hold on, hold on.
わかっているから、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
だから私は待ち続けるの、素晴らしい時が消え果るまでは
わかっているから、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
ただ待つの、待っているの、待ち続けるの
A fool will lose tomorrow reaching back for yesterday;
I won't turn my head in sorrow if you should go away.
I'll stand here and remember just how good it's been,
and I know I'll never love this way again.
愚か者は明日を失い、過去にばかり気を向けるもの
貴方が離れていくのだとしても、私は悲しみで振り返ることはしないわ
私はここに立ち、そしてただ2人がどれほど素晴らしい時を過ごしたかを忘れないだけ
そしてわかっているの、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
I know I'll never love this way again,
so I keep holdin' on before the good is gone.
I know I'll never love this way again,
hold on, hold on, hold on.
わかっているから、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
だから私は待ち続けるの、素晴らしい時が消え果るまで
わかっているから、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
ただ待つの、待っているの、待ち続けるの
I know I'll never love this way again,
so I keep holdin' on before the good is gone.
I know I'll never love this way again,
hold on, hold on.
わかっているから、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
だから私は待ち続けるの、素晴らしい時が消え果るまでは
わかっているから、もうこんな風に誰かを愛するなんて決してないことを
ただ待つの、待っているのよ
<対訳>多々野親父
●ディオンヌ・ワーウィックにとって、なんと1974年10月26日に全米1位を獲得した「愛のめぐり逢い」以来5年ぶりのTop40ヒットということで、当時はそのインターバルの長さが意外過ぎてびっくりした記憶があります。バート・バカラックと組んだ1960年代にはもうビッグネームとなっていた彼女だけに、この頃もその知名度は絶大だったですからねぇ。
この「涙の分かれ道」は、1977年まで5年間に渡って在籍したワーナーブラザースを離れ、アリスタレコードへ移籍して製作した最初のアルバム「ディオンヌ」からのファースト・シングルということだけでなく、バリー・マニロウがプロデュースを担当したということでも大きな話題になった曲でした。この頃のバリーと言えば「歌の贈り物」や「涙色の微笑み」といった大ヒットを連発していた時代で、ノリにノっているという勢いをそのまま持ち込んだようないい仕事ぶりを見せていました。
チャート面では1979年7月28日にTop40入りを果たし、35位→29位→20位→16位→14位→10位→9位→8位→8位→7位→7位→6位→5位→5位→13位→14位→22位と最高位5位ながら17週もTop40に留まったロングセラーになっています。
惜しむらくは、邦題が演歌なことですよねぇ・・・。
(マイ・シャローナ/ナック)
Ooh my little pretty one, pretty one.
When you gonna give me some time, Sharona?
Ooh you make my motor run, my motor run.
Gun it comin' off the line Sharona
ああ、オレのカワイコちゃん、カワイコちゃん
いつになったらチャンスをくれるのさ、愛しのシャローナ
ああ、お前はオレのモーターをぶん回す、ぶん回すのさ
もうブレーキを離して突っ走るだけなんだよ、シャローナ
Never gonna stop, give it up.
Such a dirty mind. Always get it up for the touch
of the younger kind. My my my i yi woo. M M M My Sharona...
走り出したら止まらない、諦めるんだね
口にできないほどの下心、いつだってビンビンなのさ
年下のお前に触れるとな、愛しのシャローナ
Come a little closer huh, ah will ya huh.
Close enough to look in my eyes, Sharona.
Keeping it a mystery gets to me
Running down the length of my thighs, Sharona
もうちょっとこっちへ来いよ、来てくれって
オレの目がはっきり見えるところまで近づけよ、シャローナ
ミステリーのままだから、オレの心はジリジリするのさ
オレの太股の端から端まで、お前は手を這わせてさ
Never gonna stop, give it up. Such a dirty mind.
Always get it up for the touch
of the younger kind. My my my i yi woo. M M M My Sharona...
走り出したら止まらない、諦めるんだね、口にできないほどの下心
いつだってビンビンなのさ
年下のお前に触れるとな、愛しのシャローナ
When you gonna give it to me, give it to me.
It is just a matter of time Sharona
Is it just destiny, destiny?
Or is it just a game in my mind, Sharona?
いつになったらチャンスをくれるのさ、チャンスをさ
もう時間の問題なんだぜ、シャローナ
運命ってヤツ?これって運命ってヤツなのか?
それともただオレが妄想してるだけかよ、シャローナ?
Never gonna stop, give it up.
Such a dirty mind. Always get it up for the touch
of the younger kind. My my my i yi woo. M M M My Sharona...
走り出したら止まらない、諦めるんだね
口にできないほどの下心、いつだってビンビンなのさ
年下のお前に触れるとな、愛しのシャローナ
<対訳>多々野親父
●1979年と言えばこの曲を抜きにして語れない、というほど多くの人の記憶に残る大ヒット曲、それがナックの「マイ・シャローナ」である。ズズ・タタ、ズッタ、ズッタ、ズズタ、ズーズ・タタ・・・、というオリジナリティ溢れるビートに乗って、難攻不落の小娘をたらしこめようとする野郎の独り言が延々繰り返されるこの曲が収録された彼らのデビューアルバム「ゲット・ザ・ナック」は、製作期間11日、かけた予算は1万8000ドルという超省エネ状態で生み出されている。しかしリリースされると、たった13日で売り上げは100万枚を突破し、1ヶ月後にはプラチナディスクに認定、最終的には400万枚以上を売り尽くすという凄まじい人気を集めたのだから、その費用対効果の優秀さには改めて驚いてしまうわけである。
ナックはロサンゼルスで結成されたバンドだったが、おかっぱ頭が印象的だったボーカルのダグ・フィーガーはデトロイトの出身で、元々はカントリーロックを演奏していたという人である。彼はビートルズのファンで、そのテイストはナックのサウンドにも強く反映されていた。ダグは「ビートルズが僕の人生を変えたと言っていい。僕は姉さんとビートルズが出演した「エド・サリヴァン・ショー」を子供部屋にあった小さいテレビで見てたんだけど、大きいテレビでドラマを見ていた父親に『そっちで見せて!』って頼んだんだ。いつもは絶対にそんなこと言い出さなかったのにね。だから、その時のことは本当に忘れられないよ。そして、ジョン・レノンの印象は強烈だった。それまでに見た誰よりもパワフルで、自信に満ちた若者だった」とそのとっかかりについて語っている。しかしダグは、自分達がビートルズを模倣していたわけではないと付け加えている。ティーンエイジにさしかかったかつての自分達の思いを、1960年代に流行した音で表現したかったのだ、とそのアイデンティティを強調してもいるのである。
しかし、テレビでナックを見た人達は、そこにビートルズの影を見ていたのは事実だった。その様子は、ビートルズ初めての映画「ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!」の4人そのままで、またほとんどのヒット曲がディスコ系だったこの頃には他にナックのようなバンドが存在しなかったこともあり、彼らは常にビートルズと比較されることになっていく。そしてそうした空気が、満員のコンサートを終えた後で彼らに「オレたちはビートルズを越えた」という発言をさせてしまうのである。
何にしても、「マイ・シャローナ」は1979年7月21日にTop40へ飛び込んでくると(偶然同じ週にピンク・レディの「キス・インザ・ダーク」もTop40へと入って来ている)、34位→18位→6位→4位→2位→1位→1位→1位→1位→1位→1位→4位→5位→8位→19位→26位というチャートアクションを見せ、8月25日から6週間も1位を独走する超絶ヒットを記録する。そして年始には、1979年の年間チャートで1位に選出されるのである。
ナックは一発屋と呼ばれているが、それは正しいものでない。「ゲット・ザ・ナック」からのセカンドシングル「グッド・ガールズ・ドント」は最高位11位を記録するスマッシュヒットになっているし、翌1980年にリリースされたセカンドアルバム「・・・バット、ザ・リトル・ガールズ・アンダースタンド」からの最初のシングル「ベイビー・トークス・ダーティ」も38位まで上昇しているからである。アルバムの方も最高位5位をマークし、製作期間1週間、制作費1万ドル以下というデビューアルバムを更に下回る環境で製作されたことも話題になっている。しかしナックは1981年にアルバム「ラウンド・トリップ」をリリースした後解散し、その後はメンバー変更を含めて再結成をしながら、2003年までに4枚のアルバムをリリースしている。
その一方、ドラマーのブルース・グレイが2005年にリンパ腫でこの世を去っており、オリジナルメンバーでの再結成は不可能という状況になっている。
さて「マイ・シャローナ」のヒットは中学3年の時で、ちょうど何でもギターで弾きたい時期だったこともあり、耳でコピーしながらよく演奏していたものである。で、実は間奏部分のアレンジをカッコいいと思っていたりしたのだ。全く関連性のない二つのパートをブレイクを噛ませながらうまくくっつけていたあたりに、ナックがいいセンスを持っていたことがみてとれるのだが、いかんせん売れ過ぎた為、何だか時代の徒花のような存在になって今に至っている。これがちょっと残念でならない。
で・・・。
そう思ったのは私だけなく、ヒップホップ興隆の祖RunDMCも同じだったようで、彼らは1986年のアルバム「ライジング・ヘル(いいアルバムです。おいらのエバーグリーン!)」に収録した”イッツ・トリッキー”に、「マイ・シャローナ」のギターリフをサンプリングで使用しています。ところが、これが無許可だったことから両者の間で訴訟が起き、まだその決着は見ていない状況にあります。既に20年に渡って売られているアルバムだけに、損害賠償の支払命令が下った場合、RunDMC側がどれだけの金額を負うことになるのかは計り知れないものになるのでは?と見られています。
(ギブ・ミー・アップ/マイケル・フォーチュナティ)
Is it the first time in your life
Or is it just another one-night stand
Do you wanna make a fool of me
Just like you do it to all those other guys
これって、君にとっては正真正銘初めてのこと?
それとも一夜限りのつまみ食いかい?
ボクのこと笑い者にしたいの?
君に近づく他の野郎どもへやってるのと同じようにさ
Now I'm leading your life on my own on these days
And I don't want to mess with no woman
Get me out on your skin
No, that's hard. I can see
But you're back to save your love, but you can't
最近、ボクは君のことを追い払い、一人でやろうとしてるのさ
もう性悪女に惑わされたくはないんだよ
ボクを君の呪縛から解放してくれ
ああ、一筋縄ではいかないけど、ボクにはわかってるんだ
そして君は自分の愛を救おうとボクのところ戻ってくる、でもできないんだ
Give me up, oh, oh, oh
give me up, oh, oh
give me up, oh, oh, oh
give me up, oh, oh
Uhh!
ボクを放っておいてよ
ボクのこと構わないで
ボクを自由にしてよ
ボクのことを諦めてよ
You got this on your mind
For love isn't sin, I just don't have no time
I'm telling you again and again
You'd better stop this playing on my mind
君はこんなことを心に抱いてる
愛に罪なんてないんだって、でもボクにはもう時間がないんだ
何度も何度も忠告してきてるよね
ボクの心を弄ぶのはやめた方がいいってさ
Take an intermit stand cause you don't have a clue
Now I'm reading off time before you
Shout it out on the roof as you must understand
I got somebody else on my mind
一度立ち止まって欲しいんだよ、今の君には手がかりがないんだから
ボクは、君が悟る前にこれからどうなるかが読めるんだ
大きな声で言ってあげるよ、君が理解しなきゃいけないことを
ボクには、他に想ってる女がいるんだってことをさ
Give me up, oh, oh, oh
give me up, oh, oh
give me up, oh, oh, oh
give me up, oh, oh
Give me up, oh, oh, oh
give me up, oh, oh
give me up, oh, oh, oh
give me up, oh, oh
Uhh!
ボクを放っておいてよ
ボクのこと構わないで
ボクを自由にしてよ
ボクのことを諦めてよ
ボクを放っておいてよ
ボクのこと構わないで
ボクを自由にしてよ
ボクのことを諦めてよ
<対訳>多々野親父
●踊りましたねぇ、ディスコで。マハラジャ隆盛のきっかけだったか、はたまたマハラジャが生んだヒット曲だったか、それとも人によってはバリライト落下で幕を閉じたトゥーリアを思い出す鍵と呼ぶのか、とにかく日本にユーロビート旋風をもたらしたエポックメイキングな曲でした。
マイケル・フォーチュナティはイタリア人ですが、「ギブ・ミー・アップ」でデビューしたのはベルギーという、なかなか面白い経歴を持っている人でもあります。彼は1955年9月3日生まれで、日本でこの曲がヒットした1987年には32歳を迎えようとしていたんですね。
アイドルデュオのBaBeがカバーしたバージョンも、斉藤由貴が主演したドラマ「あまえないでヨ!」のテーマソングに起用されてヒットしました。歌詞の方はサビの部分こそ同じだったものの、AメロとBメロでは自分の好きな彼が鈍感で、なかなか自分の気持ちに気がついてくれないことを嘆くという、全然つながりのない内容になっていましたよね。そういう意味では洋楽カバーの悪い見本という感じはしますが、1980年代終盤に吹き荒れたイケイケな雰囲気の中では、細かいことなんかどうでもいいという感覚があったことも確かです。円高不況が終わり、いよいよ上り調子に向かっていこうとしているこの時代、細かいことは気にしないってなスタイルが善でしたもんねぇ。
それにしても、この曲や「イントゥ・ザ・ナイト」を聞くと、足が勝手にステップを踏もうとして困りますねぇ(苦笑)。
・・・で、今知ったんですけど、BaBe版のこの曲を今はなき加護&辻のWがカバーしてたんすね!
(恋のナイト・フィーヴァー/ビージーズ)
Listen to the ground
there is movement all around
There is something going down
and I can feel it.
地面に響く音へ耳を傾ければ
あちこちに人の波ができているのに気がつく
何かが起きる雰囲気が漂い
僕はそれを感じることができるのさ
On the waves of the air
there is dancing out there
If it's something we can share
we can steal it.
放たれた電波に乗って
向うではダンスが始まってる
この雰囲気を分かち合えるなら
誰にも気づかれず動くこともできるさ
And that sweet city woman
she moves through the light
controlling my mind and my soul
when you reach out for me
yeah, and the feeling is bright.
あの魅力的な街の女性
灯りの中を移動してる
僕の心と魂を操りながら
貴方が僕に手を差し伸べてくれるなら
僕の気持ちも光に包まれる
Then I get night fever, night fever
We know how to do it.
Gimme that night fever, night fever
We know how to show it.
そして僕は、熱病のような興奮の夜に身を浸す、興奮の夜に
僕らはどう振る舞えばいいのかわかってる
興奮の夜を僕に、熱病のような興奮の夜を
僕らは感情をどう表現すればいいのかをわかってる
Here I am
praying for this moment to last
living on the music so fine
borne on the wind
making it mine.
僕はここさ
この瞬間が終わらぬよう祈ってる
この素敵な音楽を糧にして
風に乗って向うこの音楽を
僕のものにして
Night Fever, night fever
We know how to do it.
Gimme that night fever, night fever
We know how to show it.
そして僕は、熱病のような興奮の夜に身を浸す、興奮の夜に
僕らはどう振る舞えばいいのかわかってる
興奮の夜を僕に、熱病のような興奮の夜を
僕らは感情をどう表現すればいいのかをわかってる
In the heat of our love
don't need no help for us to make it.
Gimme just enough to take us to the morning
I got fire in my mind
I got higher in my walking
And I'm glowing in the dark
I give you warning.
僕らの愛が放つ灼熱の中でなら
誰の手を借りなくてもうまくやれるよ
朝まで2人を連れていってくれる、それだけで十分なんだ
僕の心に火をつけて
歩きながら気分はもっと高ぶっていく
僕の欲望は、見えないところでどんどん大きくなっている
要注意、って君に警告しておくよ
And that sweet city woman
she moves through the light
controlling my mind and my soul
When you reach out for me
yeah, and the feeling is bright.
あの魅力的な街の女性
灯りの中を移動してる
僕の心と魂を操りながら
貴方が僕に手を差し伸べてくれるなら
僕の気持ちも光に包まれる
Then I get night fever, night fever
We know how to do it
Gimme that night fever, night fever
We know how to show it.
そして僕は、熱病のような興奮の夜に身を浸す、興奮の夜に
僕らはどう振る舞えばいいのかわかってる
興奮の夜を僕に、熱病のような興奮の夜を
僕らは感情をどう表現すればいいのかをわかってる
Here I am
praying for this moment to last,
living on the music so fine
borne on the wind
making it mine.
僕はここさ
この瞬間が終わらぬよう祈ってる
この素敵な音楽を糧にして
風に乗って向うこの音楽を
僕のものにして
Night fever, night fever
We know how to do it.
Gimme that night fever, night fever
We know how to show it.
そして僕は、熱病のような興奮の夜に身を浸す、興奮の夜に
僕らはどう振る舞えばいいのかわかってる
興奮の夜を僕に、熱病のような興奮の夜を
僕らは感情をどう表現すればいいのかをわかってる
<対訳>多々野親父
●この曲で思い出すのは、もちろん映画「サタディ・ナイト・フィーヴァー」の大ヒットと、それによって一気に注目を浴びたディスコシーンの活気溢れる様子、ということになる。アメリカでは1978年の時点で既にディスコサウンドはチャートを席捲する勢いを見せており、こうした流れにチューニングするかのようにシカゴが「サンダー・アンド・ライトニング」を、またポール・マッカートニー&ウィングスまでもが「グッドナイト・トゥナイト」をリリースするという”事件”にまで発展していくことになる。当時はポールよ!お前もか!という感覚を覚えたものだが、30年が過ぎて振り返ってみるとディスコブームは音楽面だけでなく、アーティストの思考にもクロスオーヴァーを促したムーブメントだったという見方もできるように感じられる。このあたりは実に興味がそそられるものがありますな。
そんなディスコブームの中で我が世の春を謳歌したのがビージーズの3人だった。この映画のサントラから最初にカットされた「愛はきらめきの中に」、第2弾シングルの「ステイン・アライヴ」が1位になった後を受けてリリースされたタイトルチューンの「恋のナイト・フィーヴァー」も当然のごとく王座に就いただけでなく、なんとここに8週間も留まる大ヒットをマークしている。Top40には1978年2月11日にTop40入りを果たすと、32位→17位→8位→5位→2位→1位→1位→1位→1位→1位→1位→1位→1位→5位→10位→16位→24位→32位というチャートアクションを見せた曲である。
しかも恐ろしいことに、この3曲は同時にTop10へランクされた上、彼らの弟であるアンディ・ギブの「愛の面影」にその席を譲った「ステイン・アライヴ」が、翌週6位にまで落ちながら「恋のナイト・フィーヴァー」が1位になると同時に2位へと再浮上し、そこへ5週もステイするという大変な事態まで起きてしまう。つまり1978年の3月から4月にかけて、ビルボードのTop2はビージーズに占拠され続けたのだ。Top10に3曲同時ランクインと合わせて、これは1964年のビートルズ以来という快挙だった。この「右も左もビージーズ」という状況は、今思い返してみても凄まじいとしか言いようのないものだった。
「恋のナイト・フィーヴァー」は、映画のサントラ製作をロバート・スティグウッド(この人については「愛はきらめきの中に」の記事で紹介しています)から依頼される以前に出来上がっていた曲だった。しかしこのタイトルで行こうと決まるまで、ビージーズのギブ兄弟はかなり苦労したと語っている。その様子は「ニューヨークの通りが刺激的でイキイキしてるってことを思い起こせるタイトルにしたかったんだ。それがなかなか思いつかなくてね。でも"Night Fever"と"Stayin' Alive"という言葉を見つけ出したんだ」ということだったそうである。
また、曲ができあがった後で、今度は本体であるはずの映画の方のタイトルでも一悶着が起きている。これはビージーズ側が曲のタイトルにした「Night Fever」をそのまま使うことに反対したもので、彼らはロバート・スティグウッドにはっきりと「気に入らない」と伝えている。しかしロバートも「オレも嫌だ」と言い出し、結局(本来はこんなことをしなくていいはずの)ビージーズと共に新しいタイトルを考えることになったのだ。ロビン・ギブは「少しの間、ロバートは考えていたんだけど、そのうち僕たちを呼んでね『わかったよ。お互いに妥協しようじゃないか』って言ったんだ。そして『映画のタイトルは”Saturday Night Fever”!これで決まりだろ!』と叫んだんだよ」と振り返っている。もちろんこれが正式に採用され、後に1970年代を代表する作品名としてアメリカ映画史に残ることになったわけである。
(イフ・ユー・カム・バック/ブルー)
For all this time
I've been loving you girl
Oh yes I have
And ever since the day you left me here alone
I've been trying to find
Oh the reason why
今までずっと
僕は君を愛し続けてる
ああ、そうさ、愛してるんだ
君が僕を置き去りしてしていったあの日からずっとね
そして僕は、ずっと見つけようとしているんだよ
君がそうしたわけをね
So if I did something wrong please tell me
I wanna understand
Cos I don't want this love
To ever end
だから、もし僕に何か悪い部分があったのなら、お願いだから教えてよ
理解したいんだ、それをね
だって僕は、
この愛をここで終わりにしたくなんてないからさ
And I swear
If you come back in my life
I'll be there til the end of time (back to me, back to me, back to my life)
And I swear
I'll keep you right by my side
Cos baby you're the one I want (back to me, back to me, back to my life)
そして誓うよ
もし君が僕のもとへ戻ってくれるなら
死ぬまで君の側にいるってことを(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
こうも誓うさ
君をずっと放さないと
だって君こそ、僕が求めるただ一人の人だから(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
I watched you go
You've taken my heart with you
Oh yes you did
Everytime I tried to reach you on the phone
Baby you're never there
Girl you're never home
僕は、君が去って行くのをじっと見てた
君はその時、僕のハートも持ち去ってしまったんだよ
ああ、そうさ、君は持っていってしまったんだ
電話で君に連絡しようとした時はいつだって
君は決してそこにはいないんだ
ねぇ、君は家には戻っていないんだよ
So if I did something wrong please tell me
I wanna understand
Cos I don't want this love
To ever end
No no no no
だから、もし僕に何か悪い部分があったのなら、お願いだから教えてよ
理解したいんだ、それをね
だって僕は、
この愛をここで終わりにしたくなんてないからさ
And I swear
If you come back in my life
I'll be there til the end of time (back to me, back to me, back to my life)
And I swear
I'll keep you right by my side
Cos baby you're the one I want (back to me, back to me, back to my life)
そして誓うよ
もし君が僕のもとへ戻ってくれるなら
死ぬまで君の側にいるってことを(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
こうも誓うさ
君をずっと放さないと
だって君こそ、僕が求めるただ一人の人だから(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
Maybe I didn't know
How to show it
And maybe I didn't know
What to say
But this time I won't disguise
Then we can build our lives
And we can be as one
多分、僕はわかってなかったんだ
どうやって自分の気持ちを示すのかがね
そしてやっぱり、わかってなかっただろうな
どんな言葉を言えばいいのかを
でも今なら、自分を偽るようなことはしないさ
そして今度は、2人の日々を築いていける
僕らは一つになれるんだ
And I swear
If you come back in my life
I'll be there til the end of time (back to me, back to me, back to my life)
And I swear
I'll keep you right by my side
Cos baby you're the one I want (back to me, back to me, back to my life)
そして誓うよ
もし君が僕のもとへ戻ってくれるなら
死ぬまで君の側にいるってことを(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
こうも誓うさ
君をずっと放さないと
だって君こそ、僕が求めるただ一人の人だから(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
And I swear
If you come back in my life
I'll be there til the end of time (back to me, back to me, back to my life)
And I swear
I'll keep you right by my side
Cos baby you're the one I want (back to me, back to me, back to my life)
そして誓うよ
もし君が僕のもとへ戻ってくれるなら
死ぬまで君の側にいるってことを(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
こうも誓うさ
君をずっと放さないと
だって君こそ、僕が求めるただ一人の人だから(帰ってきてよ、僕の元へ、僕のところへ)
<対訳>多々野親父
●というわけで、イギリスから飛び出してきたイケメンボーカル4人組のブルー、早いものでもうデビューから6年が過ぎてしまったんですねぇ。国は違いますけどニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、カラー・ミー・バッド、バック・ストリート・ボーイズ、インシンク、とアイドル系ボーカルグループは手を変え品を変えして登場し、気がつけばその系譜は途切れることなく今に至っている、まぁ言ってみればいつの時代も女の子がポップスに求めるものは変わらないものだ、というわけなのですが、ブルーの場合は2005年以降4人が4人ともソロ活動に入り、最近またグループとして活動を、みたいな流れになっているのがちょっと面白いところかもしれません。フォーリーブズとは違いますなぁ(例えが悪いか)。
「イフ・ユー・カム・バック」は彼らのデビュー・アルバム「オール・ライズ」からの3枚目のシングルとしてカットされ、「トゥー・クロース」に続く2枚目の全英1位となっています。
しかし、ファッションなんかは今風でも、歌詞を見ると1960年代の曲じゃね?レベルの王道っぷりで、これがまたタマラナかったりします。



















